Centenário

M·M·ジャネイラを悼んで

ヘルムト·フェルトマン (ケルン),岡村多希子 訳

モラエスと彼の在日ポルトガル領事および海軍士官の1913年6月10日の辞任。

モラエスの生涯には、異国情緒のゆたかな反対の世界の中に自ら好んで孤立してゆき、ポルトガルと西洋からじょじょに離脱するプロセスをみとめることができる。1891年、3年前から港務副司令としてマカオにいるとき、3年ごとに祖国で休暇を過ごすという権利を最後に行使する。1898年、在日ポルトガル第一領事の資格で神戸に転任する。その後、2度とふたたぴマカオに帰らなかった。そして、1913年6月10日付電報で、ポルトガル共和国大統領あてにすべての公職を即時免じてくれと願い出、同時に退役の権利も自ら放棄する。その電報全文は以下のとおり「ポルトガル共和国閣下。日本の兵庫大阪ポルトガル領事の任務を果たし、目下のところ、病気のため本国に戻る許可を外務省よりみとめられたために領事館の引き渡しを行いつつある海軍中佐ウェンセスラウ·ジョゼ·デソーザ·モラエスは個人的なきわめて強力な原因のため、その許可を取り消して日本に留まりたく存じます。日本では、退役軍人としての地位を含めポルトガル人官吏としての公的ないかなる地位をも両立し得ない、ポルトガル国籍とも多分相いれないほどの立場に身を置くつもりであります。これら全ての理由から、領事館職員およびポルトガル海軍士官の辞職を直ちにおみとめくださるよう閣下に宜しくお願い申し上げます」1辞職は7月8日。しかし、すでに数日前の7月4日に、モラエスは、余生をすごすつもりで、6万人都市の徳島に出発していた。

徳島を選んだということは、西洋文化、文明との接触から遠い流離生活を意味する。他方、この小さな地方都市の外国人嫌いの社会に組み入れられる可能性も同じように排除する。さらに悪いことは、モラエスはもっともひどい屈辱的行為の無防備な目標であった。「徳島のぼんなどり」のオランウータンのエピソードは徳島における彼のきわめて辛い立場をよく示している。徳島では彼の住んでいた家は1階が8平方メートルの部屋と粗末な付属施設、2階が14平方メートルの部屋であった。「人形の部屋である(…)私向きではない。私は、立つと、ほとんど天井に頭をぶつけてしまい、がさつな仕種をしただけでこれを全てばらばらにしてしまれないように、用心しなければならない。この「流離の部屋」の描写の中で、モラエスは移動動物園見物をさしはさむが、その一番の魅力は格子の中の狭隘きわまる檻に入れられたボルネオのオランウータンである。そのオランウータンの描写は彼の自画像である。

2月の寒い日である。番人が濫の前にかんかん燃えた炭火でいっぱいのプリキの火鉢を置いた。オランウータンは疲れきった老い果てた柿子を見せている。「ほとんどキリスト教的ともいえる諦念によって和された大きな疲労、大きな絶望の表情…!」無気カと槛の狭さのために1日中座るから横になっている。両手に番人がおもちやとして持たせた鉄槌をつかんでいるが、それは、作家モラエスのぺンにあたるものと理解することもできる。オランウータンはしばらくのあいだその鉄槌を観察するが、嫌いになってついにそれを手放す。置いてある袋のわらをいくらかひっぱりだして噛むと番人は怒り、怒鳴り、燃えている炭火から取りだした火箸で彼を脅す。すでに幾度か肌にその熱い鉄を味わったことのあるそのあわれな動物は、「恐ろしい身振りと目つき、恐怖の身振りと目つき、憎悪、無能力、戸惑いの身振りと目つき」をして反応する。しかし、? すぐに「あきらめた殉教者のいつもの表情になる。その間、見物人は面白がって笑う。モラエスはオランウータンのマライ語を「森の人」と翻訳する。徳島の住人にとっては、モラエスは、その風貌のせいで「森の人」のようなものであった。広い肩、肩にかかる長いその金髪、顔の半分を覆う長いあごひげ。

「人間一猿」を前にして日本人の感性は鈍る。「私は、千代子(彼の2番目の妻であるコハルの妹)にとっては猿などだ(…)、猿に対しては、見慣れない動物に抱くような恐怖心はなくなって、彼女は、自分と同類のものたち、日本人たちには決して働いたことのない、敢えて働こうとはしないであろうふらちな行為に及んでも構わないと考えたのだ。」

徳島への隠棲というような重大な一歩を踏み出す決意をモラエスにさせたのは何なのか。この質問は、彼の同時代人にとっても謎であった。1913年10月、マカオ政府は東京の外務省にモラエスがまだ精神的に正常であるかと問い合わせた。東京は警察にモラエスの精神状態を調べさせた。彼との直接のやりとりののち、彼は正常だと判断することになった2

日本当局にとっても、自由気ままに、しかも極度に困難な条件の中で徳島にくらしているこのポルトガル人は謎であった。日本から1914年8月23日にドイツに宣戦布告すると、モラエスはスパイではないかと疑われるにいたった。したがって、軍事警察訊

問され、彼の動きはしばらくのあいだコントロールされた。

モラエスが、その作品の中で、親しい人への手紙の中でさえも、自分の行動の理由をはっきり明らかさなかったために、ポルトガルと日本の伝記研究はその謎を解くのにつとめ、一致した結論として、彼を公職辞任と徳島隠棲に駆り立てたのはおヨネへの愛であると断じた。

福本おョネは徳島の生まれであった。彼女の両親は困窮のあまり彼女を神戸のゲイシヤ屋へ売った。彼女は歌い、踊り、シャミセンを弾くことができた。日本人伝記作家松本によれば、モラエスは、1898年9月に、神戸の下級歓楽街で彼女を知ったらしい。その街ではゲイシャの技芸と売春との境界がはっきりしていなかった。1899年4月、モラエスは、身請金を支払っておヨネを自由にしてやった。1900年11月に神式で彼女と結婚した。彼女は25才であった。おヨネは1912年8月に心臓発作で死んだ。彼女の遺骨は徳島に運ばれ、モラエスが墓を建ててやった。

ブルジョア的生活の快適さと名誉ある職を棄てて妻の遺骨のそばに住んだ熱烈な恋人のロマンチックな伝説は、ジャイメ·ド·インソ作「中国の幻想」(1933年)中の「ウエンセスラウ·デ·モラエス」の章によって生じ、アンジェロ·ペレイラとオルデミロ·セザルが発展させた。彼らは1937年に論文「ウエンセンスラウ·デ·モラエスの恋」を出版し、その中で言っている。「(おヨネの死による)深い打撃は彼の心をうちのめし、彼をして神戸を棄て、徳島に定住させる。徳島に彼女の遺骨があるからだ。彼はまた領事の職を棄て、海軍士官もやめる。彼はいくらか最も愛しているものを除いて、すべての持ちもの、無数の書物を急いで売り払い処分した。アルマンド·マルティンス·ジャネイラはこの解釈を深め、徳島隠棲を日本文化への同化の長い過程の意義ぶかい一段階と理解する。「ウエンセスラウは、死者と暮らすために徳島に行く。(…)日本では、つれあいの墓のそぱに行って暮らすために夫や妻を亡くした人がすべてを売り払うことがよくある。ウエンセスラウは日本の旧習にしたがったにすぎない。彼女の写真は家族の祭壇、ブッダンに飾られる。朝の最初のお茶と鍋からよそう最初のご飯のひとさじは彼女の魂にささげられる。贈り物を開けるときに必ず、まず、愛する魂に属する部分をブッダンに飾り、「ヨロシク·オアガリ·クダサイ」をつぶやく。モラエスは長年日本に滞在し、日本的なものであればどんなものをも受容する感性をもちあわせているので、すでにこの詩的信仰を吸収していたのである。徳島へ移住とその小地方都市での貧しく、敬虔で落ち着いた生活を説明するのはこのことだけである。この徳島で彼は潮音寺の小さな墓におヨネを訪ねに行かない日は1日としてなかった。」

おヨネの死—原因—と自らの発意による辞職と流離—結果—とのあいだの相互依存に基づいて「徳島のぽんおどり」を魅力的ではあるが、別の読み方もできるように思われる。確かに、おヨネの墓は隠遁地の選択に影響を及ぼしたが、辞職願いとその結果としての西洋世界からの隠遁にたいする別の説明をもとめる伝記的資料やモラエス作品中の証拠がないわけではない。彼の作品の中にもどこにも、おヨネの死が辞職願いに重要な働きをしたことをモラエスは、あいまいにせよ、示唆してはいない。さらに、「徳島のぼんおどり」の中で彼は言っている。日本での居住地の選択について長いあいだ思案した、と「この問題を長いこと考えた。いくつかの案、いくつかの場所が心に浮かんだ。賛否を議論し、ついに私たちのひとりがもうひとりにおよそ次のように叫んだ。一生者からのがれよ。お前の追慕の念を湧かせる愛しい名前を思い出させるその墓のそぱ、徳島に行け。」もしおヨネの墓のそばで晩年を送りたいという望みが辞職の理由であったならば、将来の居住地についてのモラエスのこの思案は意味をなさないことになるであろラ。

日本の伝記研究は、必ずしも実証し得るわけではないが、恋ゆえの犠牲というこの神話を問題にする一連の事実を明らかにする。世話にしてもらいたいときにはいつも、モラエスは、徳島に住む姉の斎藤ユキの援助をもとめた。彼女はいつも、娘、19才のコハルを伴ってやってきた。モラエスがおヨネの死の以前にこの若い女に大いに魅かれていたことを、すべてのことが示している。斎藤家は子沢山で貧しかった。コハルの父親は本州と四国を結ぶ舟のコックをしていた。日本人伝記作家たちによれば、モラエスのコハルへの恋はユキに感付かれていたので、ユキは、おヨネの死んだときに、娘を在神戸ポルトガル領事と結婚させることを考えたのであろう。しかしながら、第三の女性がこの状況をややこしくすることになった。永原デンである。彼女が辞職願いの折りにモラエスの生活に重要な役割を演じたらしい。おヨネノ死後、モラエスは、松江近くの今市 (島根県)出身の25才のこの魅力的な女性と同棲するよラになった。彼らの同棲中は、斎藤ユキがおヨネの墓参りをかれにさせよラとしても、ラまくゆかなかった。1913年4月に、モラエスは、ふたりの生活のための家を探すよラにと、デンを松江に帰した。

松江は、日本の異国情調の亡き師、ラフカディオ·ハーン(1850—1904)の一時住んでいた地であったところから、特別の関心があった。ハーンの生と作品はモラエスの生涯と多くの共通点がある。ハーンについて語りながらモラエスは自分自身の生涯について語っているようである。「ハーンは、幼少時代から、自分の同胞たち、白人種の犠牲であったと考えるべきである。彼のデリケートな感傷性は、西欧社会において見られるとおりの時代精神の嫌らしさに苦しんだ。たまたま日本にきて、魅らされたこの地に落ち着き、日本女性と結婚し、日本に帰化し、日本精神とできるかぎり一体化した。」ハーンの最後の年は徳島でのモラエスの流離を予見させさえする。「身体が弱く、それが若い頃の苛酷な生活によってきっと一層損なわれて、小泉八雲は、しばらく前から病気にかかり、みごとな庭にかこまれた東京の和風の居住にひきこもっていた。神経質なエキセントリックは気質であり、他人との交際にうんざりして、首都の大勢の外国人とのいかなる関係も、この晩年には、すべて拒否していた。」

モラエスは自分の文学的教養はハーンに大いに負うていると打明けた。「わたしは何度もラフカディオ·ハーンについて語っている。彼は、ヨーロッパ語で日本について書いた最も才能ゆたかな印象主義者である。場合によっては単に語るだけではない。? 私は彼の本のなかに日本の伝説について貴重な発見をしてがり、そのいくつかを私の粗雑な散文の中で発表してきた。私は盗作はゆるされる、すすめられさえできると言わなければならない。というのも、この国と国民について研究から生まれる最も美しく興味ぶかいことを読者に提示するのがわたしに課せられたしごとだからであり、次の事情を考慮するからである。我国の文学環境においてハーンはほとんど知られていないこと、作者がおかれていた特殊きわまる状況と彼の日本語と日本の古典文学についてのすばらしい知識のおかげで、土着の伝説がそれらの作品には豊富にとりあげられていること、研究者としての繊細きわまる資質。」もしモラエスが松江を居住地に選んだとしたら、誰の目にもハーンの文学的継承者とうつったであろう。 松江/デンと徳島/コハルとのあいだの選択はむつかしかったであろう。松本によれば、7月4日に徳島で斉藤家と行われた交渉で、彼は決意をかためた。そして、数日後に神戸に帰ったときには、家庭を解消することに堅く心に決めていた。帰宅すると、手紙があったであろう。その中で永原デンは、松江での將来の生活のために万事準備がととのった宣伝えていた。彼女自身、新家庭の財政状況を改善するためにタバコ屋を開くつもりであった。返事の中でモラエスは気持ちが変わったことを詫びたであろう。二度と彼女に会わなかったことをすべてが示している。

以下の叙述は、モラエスの徳島隠遁のきわめて複雑な問題を「説明」するためではなく新しいアプローチの道を開こうというためである。日本においてモラエスが実際に生きた実生活と作品の中で述べている観念的生活とを区別しなければならないというところから出発する。実生活についてはほとんど分からない。親族や友人たちにあてた內輪の手紙をひもとく人は、この冒険者的作家の通信量のわずかなこと——手紙やヵードが3、4冊に、またその內容が彼の日本での生活をほとんど明らかにしていないことに一驚する。「日本通信」(1902-1913)の期間、彼はおヨネと暮らしているが、私信の中でも文学作品の中でも彼女にはまったく言及していない。もっとも驚くべきことは、頻繁に通信を交わしていた妹のフランシスカすらおヨネの存在については知らなかったことである。彼女の死に捺し、自分をひとく悲しませた「女中」の死を葉書の中で知らせるにとどまる。これが14年間にわたる同棲気間の通信の中でみとめられる唯一のおヨネについての言及である。

モラエスが日本在住の唯一人のポルトガル人であったところから、読者、親族、友人たちに、彼らに知られたくないことに隠すことは容易であった。彼が「內輪の」通信の中で日本での二度の結婚について語るのを徹底的に避けたのはなぜなのか、しかもその死にいたるまで。あるいは一般的に自分の愛情生活についても。

またその作品の中でもモラエスは、自分の生活の中での性愛について語ることを避けた。恋のアバンチュールについての唯一の一節は1894年の「日本の追憶」に見出される。「大日本」(1895)は確かに、「生きた芸術作品」としてたたえられた日本女性の魅力への賛歌ではある。だが、モラエスは自分の具体的な情熱にはまったく触れない。このロマン主義的、デカダン派のアンティミストに関心があったのは、自分の観念的生活、つまり自分の生活の主導「理念」、原動力に文学的表現を与えることなのである。かれの物語の自伝部分で彼は常に自分を、日本社会の周縁で「流離」のうちにくらす孤独な独身者として提示している。明らかに、モラエスの価値体系の中で禁欲はきねだった位置をためている。自分が専ら道徳的、精神的価値にしたがって、質素な修道士的生活を送っていると読者に見てもらいたいがために、実生活の不完全なもの、「卑しいもの」と自分が考えていることについて語ることを避けたのである。そして、手紙と文学的自画像とのあいだに矛盾を来さないようにするためにあらゆることをした。

モラエスは読者に、自分の生活が極度に変わっていることだけではなく、自分の徳義心の高さをも印象づけようとしたかに思われる。徳島における自分のオランウータンの役割をこまごまと述べるのは、日本の奥地の回顧的、外国嫌いの都市でのヨーロッパ人の立場を総合するためではなく、彼の「理念的」生活において犠牲と殉教の役割をひきうける鍵の働きをするからである。キリスト教的価値が深くしみついているモラエスの倫理にとっては個人を神性の光輪でどりまき彼を気高くさせるのは、深く悩み英雄的に受容される苦痛だけである。オランウータンの目ざしにみとめられる強烈な苦悩、悲しみ、パニックは、彼を英雄的叙事詩の主人公に変容する。「なんという目ざし!…あの目ざしに何という深い悲しみの深淵が!何という苦悩であることか!…ただ見ているだけで、ただ見るだけで、あの大きいな痛みを私は理解できる! …」モラエスのオランウータンとの類似性は焼け火箸のシーンでは終わらない。「囚人」を眺めれば眺めるほど、その表情は身近なものになる。「ああ、間違いない。彼だ!…私は大画家ラファエル·ボルダロが2、30年前に鉛筆で? 描いた有名なぜ·ポヴィーニョの今日では伝説となっているあの姿を目の前にしているのだ。そのとき私は、結核のためにゆるされるまでこれといった罪もないのに終身刑を宣告され、工具の持ちこみを物笑いにするために認められたあわれな下層階級の男、ポルトガルの大工を、その檻の中に見ているような鮮明な幻想にとらわれた! 」猿つまり大工のゼ·ポヴィーニョは、搾取され権利をもたない、つまり労働者階級のポルトガル民衆のアレゴリーである。そして、「徳島のぽんおどり」の主人公つまりモラエスが猿と自分を同一視するという事実から、彼が自分の運命をポルトガル民衆の運命の総合として見るようになった、と結論することができる。

伝記的観点から言えば、モラエス自ら好んで、外的強制なしに徳島に根を下ろした。文学的レベルでは、しかしながら、徳島の家での「虜囚」のゆっくりとした死は、ポルトガルでの生活条件の直接的結果である。ポルトガルでは、他の人にとって同じように彼には「精神のパン」が欠けていたのである。したがって、昼食のパンの欠けている田舎の農夫が生きる糧を求めて遠くに移住するように、移住するのである。」私信の中でモラエスはこの考えを具体的に述べて、自分の「流離」を権力の停滞とポルトガルの生産関係のせいにする。「我々の文明は通俗、エゴイズム、気味なさのうちにます退廃していく。

大金持、工業家、さらには政治屋たちは自分たちの利害のために、まだその文明を愛していると私は思う。しかし、そんなこととは関係のない、感情で生きなければならない者は、もはや我々の文明がもっていない純粋、善良、絵画的なものを根底とする原始的文明に止むなく頼ることになる。」

彼の文学作品の3人の登場人物は彼自身、しかしながら理想化され神話化された彼、同じように神話化された日本——彼のマカオ時代の傑作のタイトルは大日本である——、それに、逆説的にも自分の実際の故国であるポルトガルを選択した故国である日本に取り替えたかに思われる作者の作品の中での大いなる不在者に見えるポルトガル。モラエスが真に拒否しているものは1890年のイギリスの最後通牒とそれに続く数十年の故国であって、発見時代のポルトガルと故国の潜在的な高い「理念」を考慮に入れてみると、その逆説は解消する。自らのうちに英雄的ポルトガルのエネルギーと大胆さを見出し、ポルトガルの主題的不在のシンボリズムを理解し徳島の世捨人の追慕の情のこもったメッセージをとらえられそうなポルトガルの同宗者に自分の作品を向けるのである。こうして、ポルトガルの過去の偉大さの追慕を祀る舞台あるいは祭壇としてひとたび徳島を選んだのちは、日本国內の旅行のためにすら、1913年から1929年までの長期間一度もこの町をモラエスが離れなかったという事実が意味を帯びる。モラエスが、私の知る限り、英語にも、日本語を含む他のいかなる言語にも自分の作品が翻訳されることを望んだことがないという事実も、同様に意義ぶかい。

日本でのモラエスの友人、ペドロ·ヴィセンテ·デ·コートは、松本によって詳しく再現されている会話を思いおこす。コートはマカオ人であって神戸にある香港上海銀行の行員であった。モラエスが彼に抱いている愛情は、1913年4月7日にディアス·ブランコに宛てた次の文面にあらわれている。「コートはここのマカオ人の中でいちばんよい人間で、まじめて正直で働き者だ。君は、ほくが推せんした他の人々よりもずっと多くのことを彼のためにしてくれている。ありがとう。」コートはモラエスの生活の中の重要な事件—たとえばおヨネとの結婚や彼女の死—のすべてに立合っていた。その上、しばしば徳島に彼を訪問している。したがって、信頼にあたいする情報源とみることができる。

1912年の年末の前に交わされたらしい会話の中でモラエスは、1913年には自分は59歳になると言う。59歳を人生の第一周期の終わり、60歳を第二周期のはじめを見なす中国の暦(日本語では還暦)に言及して、モラエスは、第一周期から大二周期への移行(1913年5月30日)を新しい出発と考えると打明ける。したがって、健康がめるす限り別の仕事に全力をささげることができるよう、公職を辞すつもりだ、と。コートは、モラエスが専ら文学創作に身をささけることに固く決心しているものと理解し、そのことをモラエスも確認する。彼は、作家としての完全な自己実現のために社会生活を犠牲にすることをのぞんでいる、と。

誕生日(5月30日)と辞職願いの日(6月10日)との差は、6月10日がカモンイスの没した日であるという事実によって説明される。辞職願いの電報とは、このようにして、象徴的に相関関係がある。

モラエスにとって、現代ポルトガル文学の詩的インスピレーションの泉は追慕であった。テイシェイラ·デ·パスコアイスとサウドジズムの運動について知っていたことは充分考えられる。あらゆるやり方で、60歳の誕生日に行われた「精神的自殺」によってモラエスは、自分自身の人生についてある上部の段階、時間的、空間的な距離のところに到達したのだと信じる。全的に追慕を享受するのに必要な条件がついにととのう。徳島隠棲2年後にモラエスは認めることができる。「私は何年も前から追慕の世界にくらしており、他の世界ではない。これは〔…〕、もはや私が所属していない地上の世界と私が急速に近づいている死の世界との正当な仲介者である。また「流離の立場」を、「重要さ」においてポルトガル文学の傑作と肩を並べるか越えすらするような追慕の詩的作品を創造する希望と関連付ける。「徳島のぼんおどり」の「壮大なテーマ」は、「彼の精神的自殺」後のこの都市での彼の生活である。「大胆!信じられない大胆さだ、金髪碧眼の人間にとっては、白人種の国の人間に、さらにはポルトガル人にとっては!…」

モラエスは全的追慕を生きたかった。奥地の日本のどの都市を選ぶこともできたであろうに、徳島を選んだ。なぜならおヨネの墓が追慕の宗教儀式をとりおこなう舞台となるからであった。死後はじめて、おヨネとコハルは文学作品の中に現れるが妻や恋人としてではなく、モラエスの過去の生活の全体を示す追慕の象徴的物質化として。「私のつらい心中は、遠い過去を語ってくれるすべてのものをとらえ抱きしめたいとのおもいであらゆる方角に伸びる巨大な足をもった大蛸にたとえることができる。(…)私は彼らを、死者たちを、人種の別なく得失に。関係なく愛することを学んできた。墓を前にすると只感動し、愛した人々、憎んだ人々、見たもの、聞いたもの、あらゆるものがなっかしい!…」

19世紀ポルトガル文化の特徴のひとつは、その政治的、経済的、社会的、文化的凡庸な現実の具体的状況によって強く否定された理念的偉大さのうちにポルトガルをふたたぴ位置づけたいという欲求である、とエドアルド·ロウレンソは述べている。つまり、文学の分野でいえば、その象徴的再生が果たされるような運動や作品を創りだするというオブセションである。」(3)モラエスの人生と作品は「16世紀的な精神を再びっくり出す」という試みのひとつである」(4)1878年3月、インド航路発見400年記念に際し、モラエスは神戸からポルトガル人に向けて「聖なる訴え」を発した。「目覚めよ、ポルトガル、時が来た。父よ、目覚めよ!…何のために眠るのに何千日をもかれに与えなければならないのか、私にはわからない!…目覚めよ、父よ。太陽はすでにずっと前から輝き、今日は家族の祭りの日だ!…」目覚めよ、立って、勇気を出して、汝の過去、汝の英雄たち、汝のカモンイスを愛せ!…」このようにしてモラエスは、もう1度エドアルド·ローレンソの言葉を使うならば、「我々を失望させる苦々しい現実が我々に求めるすばらしい夢をそこでみることができないままに我々すべてが持っている故国を探している知的ユリシーズの長い終わることのない家系」(6)に含まれるのである。

書誌

·Wenceslau de Moraes, Dai Nippon-O Grande Japão. Lisboa, 3a. ed., 1972 O Bon-Odori em Tokushima, 2a. ed., Porto, Companhia Portuguesa Editora(1929)

·Cartas do Japão, vol: Um ano de Guerra (1904-1905), Porto, Livraria Magalhães e Moniz Editora,1905

·Cartas do Japão, vol: A vida japonesa (1905-1906), Livraria Chardon, de Lello & Irmão, Porto, 1907

·Osoroshi, Lisboa, V. Abrantes, 1933

·Armando Martins Janeira, O Jardim do Encanto Perdido. Aventura maravilhosa de Wenceslau de Moraes no Japão, Porto, Manuel Barreira, s. d.

·Eduardo Lourenço, O labirinto da saudade, Lisboa, Publicações Don Quixote, 1978

·Alvaro Manuel Machado, O mito do oriente na lite ratura portuguesa, Lisboa Instituto de Cultura e Língua Portuguesa, colecção <>Vol.72,1983

·Helmut Feldmann, Wenceslau de Moraes (1854-1929) und Japan, Munster, Achendorffsche Verlags-buchhandlung, 1987 (Colecção <

1 Armando Martins Janeira, O Jardim do Encanto Perdido

2 ibid. p.273

O labirinto da Saudade, p.93

desde a p. 323
até a p.