Centenário

「イエズス会士と対日貿易」

アナ·マリア·レイタン,金七紀男 訳

第1章 対日貿易: 中国か らのナウ船

ポルトガル人が「中国貿易」を行ったのは、ほぼ1550年から1640年にかけての1世紀に満たない期間にすぎなかったが、彼らは中国と日本の間を取り持つ仲介者として絹と銀を取引することで莫大な利益を手にすることができた。

当頭、日本への行き先は九州で、決まった停泊地というものはなかったが、その一因は、日本の內政によるものでもあった。当時、日本は、領国同士が争ぅ政治的不安定の時代にあり、フランシヌ·エレールも次のように述べている。

「室町時代末期は、中央政権の全面的な動揺、ことに16世紀における大名の急激な交替によって特徴づけられるが、この現象を同時代人は、下克上の時代("転覆、上下関係の逆転の時代")と呼び、歴史家もそれに倣っている。」1?

このように、日本は群雄割拠の状態にあったで、一貫した外交政策というものは存在しなかった。松田毅一は、次のようにのべている。

「ジヤンク船は、貿易上の都合だけでなく、封建領主の善意によるところも大きかったのである。」2

しかし、長崎の開港(1571年)によって状況は一変し、チャールズ? ボクサーも述べているよぅに、同市は「対マカオ貿易の公式の交易地」となった3。毎年ポルトガル商人のナウ船が一隻日本を訪れたが、しだいにそれは極東での定期航海として定着するようになった。

この航海は、ポルトガル人が行っていた最も遠距離の航海であったが、また季節風待ち、広東市場での商品購入の期間に航海そのものの期間を加えると、最も歳月のかかる航海でもあった。ポルトガル人は、北ョーロッパ(フランドルの時計)からポルトガル(ブドウ酒)を経て、インド(織物)、マラッカ(香料、香木、動物の皮革)、マカオ、広東(絹)の各地から来る実にさまざまの商品を買い求めた。船が港に寄る毎に商品の交換が行われたが、ポルトガル人が絹という日本での主要な商品を人手するのは最後の寄港地マカオであった。

これほどの努力を重ねるからには、当然この航海からはそれに見合った大きな利益がもたらされる必要があったと言えよう。

ディオゴ·ド·コウトは、16世紀の70年代に書かれた『インディアの夢と現実についての実践的兵士の対話』という著書の中で、「銀は毎年われわれの商船で日本から搬入されている。船の積み荷はすべて銀の延べ棒で交換されるが、その額は金赁100万クルザード以上にも上る。」と述べている。4

この日本への航海を指揮したのはカピタン·モールで、当初は国王から任命されていた。カピタン·? モールは自前の資金で航海を行ったが、その代わり利益はすべて自分のものとなった。その後、航海はゴアで競売に付されるようになった。1635年以降、カピタン·モールの地位は二義的なものとなり、その収益はポルトガル王室に収められ、カピタン·モールは棒給と手当を受け取る存在にすぎなぐなる5。この変化は、対日貿易が投下した資本を捕って余りある莫大な利益をもたらしたことを示している。ふたたぴディオゴ·ド·コウトを引用すれば、日本航海はカピタン·モールに「一航海に7、8万パルダウ」6、つまり210万から240万レアル7の利益をもたらしていた。1558年に刊行された『ポルトガル領インディアの都市と要塞』ではその数字は若干控えめで、「一航海当たり3万5000クルザードあるい若干それを上回る額に達していた。」8。それをレアル貨に換算すると、1470万レアルになる。著書が算出する数字は控えめだが、それでもこの日本航海は「インディアス全域で行われる航海のなかで最も利益の上がる航海」だと見做している。

17世紀に入ると、航海の利益はさらに大きくなる。1607年に出版された『ポルトガル領インディアスの要塞と官職』の著者ルイス·デ·フィゲイレド、ならびに「東方案內記」の著者ヤン·ハイヘン·ファン·リンスホーテンはさらに高い数値を挙げている。

「毎年行われている中国から日本への航海による貿易額は、8万から10万クルザードにも上るであろう。」11

そして、ファルカンは、カピタン·モールの収入を3360万から4200万レアルと見積もっている。他方、リンスホーテンはもっと高く見積もり、6300万から8400万レアルとしている。

「ヤパンへの航海の司令官は一回の航海で大きな利得をおさめる。初めに何がしかの元手と、立派な船―たいていそれは7、800ラスト〔1ラストは2トン〕の大きさである―をもっていれば、優に15万から20万ドゥカードの利益をあげることができた。」13

これらの数字を、ポルトガル額インディス全域の収入と比較してみるならば、16世紀、17世紀ともに驚くべきものであることがわかる。

例えば、1570年代に書かれた『実践的兵士』の中でディオゴ·ド·コウトが挙げた数字に比較して、シマン·フェルナンデスとアントニオ·デ·? アプレウによって作成されたインディア領予算は「278コント50、680レアル」である。14

この二つの資料を突き合わせてみると、日本航海のカピタン·モールは、インディア領全体から毎年ポルトガル王室にもたらされる収入のおよそ8パーセント分を得ていたことになる。1582年の『ポルトガル領インディアの都市と要塞』に挙げられた数字に対して、1581年のインディア領の予算は、2億3880万1953レアル(インド領の年間収入の約5パーセント)である15

最後に、17世紀のデータとしては、前述のルイス·デ·フィゲイレドの数字があり、インディア領の収入は、3億5556万600レアルとなっている。これに対して、日本航海のカピタン·モールの収入は、ルイス·デ·フィゲイレド·ファルカンではインド領全休の収入の10パーセントに、リンスホーテンでは実に20パーセントに達している。

そうなると、今度はどうしてこの日本航海がこんなに多くの利益をもたらすことができたのかということが、問題となってくる。

考慮すべき要素はいくつかある。まず第一に、ポルトガル商人が、当時断絶していた日本·中国両国の仲介者になったということである。第二に、両国における金銀の価値に差があったため、ボクサーの言うように、ポルトガル人が「日本の銀と中国の金を交換することによって日本の延べ銀の仲買い人になったということである。」16

これらに加えて、日本人は自国産の絹よりも中国産の絹を好んで求め、それが仲介者としてのポルトガル人が扱った主要な商品になったという事実である。

日本にはポルトガル商人以外にもョーロッパ人が訪れていた。キリスト教の布教者である。彼らは、ディオゴ·ド·コウトの実践兵士が数かずの富とともに列挙している目的、つまり毎日洗礼盤からキリスト教従を生み出させるという目的を持っていた。

「ソヌァラから日本に至るインディア全域には200万人以上のキリスト教会従がおり、さらに毎日洗礼盤から多くの信者が生まれているのを諸君たちもご存じのはずだ。」17

それでは、日本のポルトガル商人ど布教者との関係はどのようなものであったのだろうか。

第2章 日本におけるポル トガル商人と布 教者の関係およびその役割

第1節 中国からの船と日本のキリスト教化

日本における布教者とポルトガル商人との関係は、布教者たちが日本列島に定着するとすぐ始まっている。

フランシスコ·ザビエルが日本についての具体的な情報を得たのもポルトガル商人からであり、日本を訪れたのも彼らに導かれてのことだった。1548年1月20日ザビエルは、次のように書いている。

「このマラッカ市に滞在していると(1547年末)、何人かの信頼するに足るポルトガル商人たちが近年発見されたとても大きな島じまについて素晴らしい情報を伝えてくれた。その列島は日本列島と呼ばれている。」

また日本にキリストの十字架を最初に伝えたのもポルトガル商人たちであった。セバスティアン·ゴンサルヴェス神父は、著書『イエズス会の歴史の第一部』の中で、次のように述べている。

「何ヵ月前のことか定かではないが、何人かのポルトガル人が悪魔と闘って十字架を立てた。それによって、彼らがカトリック教会の名のもとに日本を占領したのも同然だった。」19

以後、ポルトガル商人とイエズス会士は長きにわたって日本を訪れることになる。取引という目的を持った商人は毎年往来するが、ふつうは留まることはない。他方、布教の目的を持つイエズス会士は、日本に滞留し日本人を迎え入れる。

このこと自体はポルトガルの海外進出の中では、とりたててめずらしいことではない。しかし、布教者たちが改宗の手段としてポルトガル船の来航を利用するようになると、違った様相を呈することになる。

日本での布教者、ルイス·フロイスは、神父とキリスト教従は「ナウ船の庇護のもとにくらしている」21と記している。

こう書いたフロイスは、何を言おうとしたのであろうか。

日本のもう一人の布教者、アレサンドロ·ヴァリニヤーノ22の著書の中でも同じように、神父とポルトガル商人のナウ船の関係が記されている。

彼は、その著書『東インディア管区諸事要録』の第17章「キリスト教徒を生み出し、その信仰を維持する方法について」の中で、ナウ船が神の支援に次ぐ重要な改宗手段だと述べている。

「神の思寵と恵みに次いで、われわれがこれまで手にしている重要な手段はナウ船である。」23

さらに、こうまでも言っている。

「噂どおり、日本の領主たちはとても貧しい。彼らが自領の港に船が入ってきた時に示す関心は大変のもので、自領への入港を願ってやまない。彼らは、キリスト教徒がおり教会があるところに、そして神父たちが希望するところに船が入ると信じ込んでいるので、彼らの多くは異教徒だが、神父たちが自領に滞留し教会を建て信者を殖やすことを願うということにあい成る。彼らは、こうすることで神父たちから望む船を入港させ、その他のはからいを受けることができると考えているようである。」24

つまり、ルイス·フロイスやヴァリニヤーノの証言から、初期の時代には日本の布教はポルトガル人による通商に大きく依存していたと判断できるのである。

九州では、横瀬浦、長崎、口之津、島原、志木、河內之浦のキリスト教集落が、船の入港と引き換えに誕生した。25

ポルトガル船は商品に関心を示す大名にとって魅力的だったばかりでなく、領主の命令による農民の集団改宗の手段ともなった26。船が来なくなると、以前の信仰に戻ってしまうことも起こり得た。例えば、志木の場合には、船が来なくなると、領主は多くの臣下ともども元の信仰に戻ってしまった。

したがって、商人とイエズス会士は日本での行く先を一致させておくことが重要だったのである。ブリアン·デ·ソウザは、その著書『帝国の存続一中国のポルトガル人』の中で、ポルトガル商人バルトロメウ·ヴァス·ランディロの例を挙げ、「彼は、神父が歓迎されなかったり、庇護されないような港や地域には商品を持ち込むことはしなかった。」27、と述べている。

第2節中国からの船と日本での布教の維持

しかし、本来的にイエズス会士とはなにか似つかわしくない商業を単に利用するといることと商人になるということの間にはかなりの距離があるはずである。この距離はどのようにして埋められたのであろうか。

すべては、ポルトガル商人ルイス·デ·アルメイダがイエズス会への入会を決意し、4000ドゥカドを寄進した時に始まる28。商人から神父に転身したアルメイダは、日本での収入を殖やすためにこの資金を商取引に投資続けることにした。ヴァリニヤーノは、その著書『弁明』の第18章でそのことを詳細に説明している。

「(ルイス·デ·アルメイダ)は、この資金を友人であるポルトガル商人を通じて、中国から絹を買っていた。友人の商人たちは、それを日本に持ち込んで売りさばいていた。このように、神父たちは、直接手を下ろさずポルトガル人を通じてこの資金から上がる利益を受け取るだけでよかったのである。」29

このような次第で、イエズス会は有名な絹貿易に参入するようになったわけだが、この貿易参入は、日本のイエズス会內部でも批判を浴ぴるようになった。その一例が、フランシスコ·カプラスの場合で、アルヴァレス·タラドリア教授によると、カブラル神父は、

「これによって、会の伝統的な規律が大きく緩み始めたと考えていた。というのは、商取引を通じて金が入ってきて、その結果、衣類や寝台に絹が使われ、食事は贅沢になり、召使を抱え、仕事や聖務がおろそかになった。そして、ついには日本の神父は、貧しい聖職者というよりは大領主を思わせるようにまでなっていた。」30

ローマでも、このような状況を憂慮したイエズス会の上層部は、アレサンドロ·ヴァリニャーノ神父を巡察師として東洋に派遣し(1573年)、イエズス会士の商取引への関与をしっかりと調査させ、事実をローマに報告させることにした。

「73年、私(アレサンドロ·ヴァリ二ャーノ)は、総会長エヴェラルド·ルクリアーノの命を受けてインディア·日本の巡察師としてローマから派遣された。任務の一つは、この商業上の支援が本当に必要なのかどうかを調査することで、そのために、必要に応じて全面的に、あるいは部分的に認めるか否かの権限を与えられた。こうして、78年ここマカオに到着し、この商業をめぐる状況についての情報を得た。」31

情報を得たヴァリニャーノは、商業を維持しながら、イエズス会士の関与する取引量を減らす(90ピコから40ピコに)32という明らかに妥協的な解決策を採ろうとした。アレサンドロ·ヴァリニャーノは、法学士としての学識を発揮して、イエズス会士の関与を滅らし、マカオの商人にも次の条件を受け入れさせることに成功した。

1. イエズス会の持ち分を優先的に売却し、糸割符の価格つまり日本到着時の最初の価格がそれに適用される(したがって、この協定は"糸割符協定"と呼ばれるようになった。

2. 売れ残った生糸はすべてイエズス会のものとなり、後に会はこれを自らの責任で売却する。

3. これまで一定していなかった収入を固定する。

これらの条件は、取引の上で明らかにイエズス会に有利なものだった。これによって、アレサンドロ·ヴァリニヤーノは、イエズス会が有望な中国貿易に関与することを容認する強力な擁護者となった。

その後、ヴァリニヤーノは、この措置によっても日本での布教の財政問題が完全に解決されるものではないということに気づいた。

そのことは、1583年ヴァリニヤーノがローマ教皇に対して、『日本巡察記』の「収入を補わなければ日本が陥る大いなる危険およぴ、収入不足の為に失われる成果」と題する章33の中で「1万ドゥカードの年収」と「3万ないし4万ドゥカードの資産」34を要請していることからもわかる。

この要請が正当であることを説明するために、彼は資金不定のみならず中国貿易自体の不確かさによって手にする収入がきわめて少ないことを訴えている。

「それは不十分であり、経費として必要なだけの収益を得られないが、さりとてこの貿易を増額することもできない。その理由は、この為の資産がないし、またマカオの住民である商人がこれに同意しないからである」。35

貿易の不安定は、頻繁に起こった難船ということだけでなく、商品ことに絹の不足によるものでもあった。

「(その貿易は)非常に不安定であり、危険なことである。支那·日本間の海は非常に暴風が多く、この商船の往復は大いなる危険に晒されている。.... その他、生糸の欠乏の為に、平素送っているだけの分量を送れないので、収入が減少したこともしぱしばある。」36

16世紀末、新たな問題が生じて糸割符の協定が揺らぎ始め、ついに日本のイエズス会士とマカオの商人との間に取り交わされた条件が守られなくなったのである。

マカオの商人は、生糸に代わって「絹織物」をもたらすようになり、「もはや協定を守ろうとしないでぁろう。」37

これによって、イエズス会はもはや100ビコの量を取引することができなくなり、新たな商品と取引先を探し求めなければならなくなった。

その一つが、金取引が行われていたインディアの航海で、1597年ヴァリニヤーノもそのことに気づいていた。

「われわれは、元通り、100ピコに戻り、その一部は若干の金とともにインディアに送られることになろう。」38

17世紀に入ると、商品、取引先の多様化が顕著になった。1621年巡察師ジェロニモ·ロドリゲスに宛てた総会長の書簡にも神父たちの商取引には金の他に時香や、取引する地域への言及が見られる。

「管区の経費をまかなうために、マカオから日本に送る商品として金や麝香を積み込むことも可能です。.... 日本への航海が行われなくなりましたので、猊下がマニラに絹をお送りになられたということに関しましては.... 。」39

時が経つにつれて、ほかにも新しい産品がイエズス会士の商品として扱われるキうになってくる。

「取引する地域が変わったために、取り扱う商品も変わり、航海先の地域に応じて管区長官は絹、金、麝香、シナ銅を送っている。」40

このように、しだいに新しい産品、新しい取引地域が模索され出したことは、絹貿易が日本で困難に直面しつつあったことを示している。

神父41とポルトガル商人42は日本で数かずの不幸を被ったために、ほかに新しい市場を求めざるを得なくなった。

しかし、神父たちが日本から追放され布教活動が終わっても、それによってイエズス会士が地域間交易に関与する必要がなくなったということにはならなかったのである。

インキン、コーチシナ、広東、海南などの地域で一連の新しい布教活動を維持する必要があったのである。

「1640年ころから日本との貿易が中断したため、状況は一変した。(インディア)諸地域の布教活動は、管区の支出を減らすどころか逆に増大させることになつた。日本が失われた代わりに、トンキン、コーチシナ、広東、海南、その他の地域で布教が始まったからである」43

このように、取り扱う産品、取引地域が多様化してきたため、1639年日本からのポルトガル人追放によっても、極東におけるイエズス会の貿易関与を終わらせることはできなかつた。

このようなイエズス会の商業重視の態度は、ョーロッパではどのように見られ判断されていたのであろうか。ポルトガル王室やローマにおけるイエズス会上層部の態度はどのようなものであったのだろうか。

第3章 聖俗権カとイエズス会の貿易関与

ョーロッパと極東の間の時間的·空間的距離ゆえに、ポルトガル王室とイエズス会の姿勢は必ずしも一致してはいなかった。

当初、対日貿易はローマのイエズス会內部ではあまり賛同を得ることはできなかった。総会長フランシスコ·ボルハ(任期1565―1572年)は、1567年10月8日インディア管区長に宛てた書簡のながでその不満を表明している。

「日本の会士たちが不安定で、しかも教導的とは言えないあの収入でまかなわれていることに私たちは不満であり、ほかにもっと確実な方法があれば、私たちはみな安心できることになるでありましゅが。」44

すでに、エヴェラルド·メルクリアーノ(任期1573―1580年は、この対日貿易を禁じて、問題をこじらせたことがあったが、同時に巡察師アレサンドロ·ヴァリニヤーノに命じて情報を収集させてもいた。しかし、後任のクラウディオ·アクアヴィーヴァ(任期1581―1615年)の場合には、貿易に疑念を生じさせるようなことは、起こっていない。そのことは、1582年2月10日ヴァリニヤーノ神父に宛てた、対日貿易を保証する書簡からも明らかである。

「日本のイエズス会の財政を支えている絹貿易については、貿易そのものに対する疑問やエヴェラル ド·デ·サンタ·メモリア神父の禁止ゆえに、猊下が会士の生活を支える方法に関して知らせてくだされた詳細な情報で承知いたしております。私たちはみな、これが、必要はあらゆる法に勝る、という事例の一つであると判断いたしております。」45

この問題に関してポルトガル王室が示した最初の公式の通告は、すでに述べたアレサドロ·ヴァリニヤーノによる協定を写し変えたものにすぎない。それは、1584年4月付けで出された数葉からなるフェリペ二世の勅令で、そこからは王室がイエズス会の中国貿易関与に好意的であることが看て取れる。その中には、アレサンドロ·ヴァリニヤーノがマカオの住民と取り交わした条件が確認されている。

「神の恩寵により、ポルトガル、アルガルヴェの王.... であるドン·フェリぺは、日本の神父たちが今まで生活を支えることもできず多額の経費をまかなう手段を持たないがゆえに..... 中国=日本間の航海から収益の一部を送金することで生活を支えることを余儀なくされているため、当時巡察師であり今は管区長であるアレサンドロ·ヴァリニヤーノ神父や商人たち、マカオの住民たちと相談して、1600ピコの船荷のうち神父たちが積み込める量は、従来の90ピコから40ピコとした。ただし、この40ピコは常に糸割符の価格で神父に売却されるものとする。.... 余は、中国のカピタン·モールに以上のように通告する。」46

同様に、この80年代に疑念が生じないように、ポルトガル王室は、次のように新たな勅令を公布してマカオ貿易に対するイエズス会の参入を確認する。

「(マカオ)市議会の役人との協定を確認し、1589年4月29日彼らは別に公文書を作成し、その控えを市の公文書室に保管する。」47

しかし、80年代は日本で活動するイエズス会の貿易に対してポルトガル王室の姿勢はきわめて好意的だったが、イエズス会內部では必ずしもそうとは言えず、総会長クラウディオ·アクアヴィーヴァは会の姿勢を見直し、その貿易を完全に禁止した。その理由は、「85年ローマに不平不満がいくつか届いた」からである。48

これらの不満は、この貿易の終焉を伝える書簡(アレサンドロ·ヴァリニャーノに宛てた85年12月24日付けのクラウティオ·アクアヴィーヴァの書簡)にも言及されている。神父が商人に同伴して個人的に取引に関与すること、神聖な空間に売り買いの騒々しい雰囲気が生じること、商品の品質のごまかしなどが、不平のもとだった。

「私が耳にする悪評、醜聞の類は、中国ではマカオのみならず広東でも聞かれます。ポルトガル商人に同じように商取引をするために日本からやって来ったイエズス会士もおります。猊下が当地に200から300ピコの絹を預けておられるという噂、それについてはすでに何通もの手紙が届いております、さらに、商品の売買、 願、マカオの施設に預けられている商品についての など、とかく商人たちの間で評判になってにおえいます。」49

このような状況に直面して、日本のキリスト教共同体の発展に必要な金を集めるために、例えば、スペインの「聖庁会計院」の場合のように、一部で地代を引き上げたところもある。こうして、その時まで生活資金の不足という理由だけで許されてきた東洋貿易に神父たちが関与する必要はなくなったのである。

「猊下もご存じのように中国=日本間の絹貿易は、イェズス会にとっても教皇庁にとっても不本意な、―時的特免にすぎませんでしたが、結局は宗教上の必要から、また世俗的な支援がなかったならば破滅するかもしれない多くの魂を救うために必要な特免となったのであります。..... 主もこの必要をお認めになられたのであります。..... しかし今は、この取引を不法なものとして直ちに全廃止するべきなのであります。」50

ところが、2年後、クラウディオ·アクアヴィーヴァはヴァリニャーノに宛てた書簡の中で、「この先、わが会士たちは慎重に行動する」51ようにという条件で、日本の神父が地域間交易に参加することを再び許可した。

この姿勢の変化の理由は、1664年12月15日付けの巡察師ルイス·デ·ガマ神父の書簡によれば、日本の布教活動に資金を送ることが困難だったことによる。

「教会への喜捨が減り、スペイン王からは期待された協力が得られなかったようでもあり、マラッカ、インディアの収入も十分ではなかった。そのため、日本から神父がマカオを訪れ、教皇は貿易上の禁止令を再び解かれたのである。」52

だが、中国貿易における神父の関与は、1596年1月2日付けのインド副王宛の国王訓令53にも見られるように、日本のイエズス会士だけのものではなかった。その訓令では、日本のイエズス会士に対してではなく、ゴア病院を経営するイエズス会士に中国への航海権が譲渡されている。

しかしながら、すでに述べたように、日本のイエズス会士がゴア貿易に関与してインドに絹と金を輪出した際に、国王に対してもイエズス会に対してもその認可を要請しなかったため、総会長は、1597年4月10日に書簡を書いてこの貿易を非難した。彼らは当初の契約の破って極東地域を越えて取引していたからである。

「猊下がインドに絹と金をお送りになられた航海を私はいささか心を痛めております。猊下はその航海が秘密裏に行われたとお思いのようですが、副王をはじめみな事の全貌を承知しております。なんとも遺憾なことと言わざるを得ません。今後は、中国=日本航海に専念し、50ピコを越えないという協定を逸脱しないようお願いします。」54

総会長の叱責にかかわらず、日本のイエズス会士の貿易関与は、ポルトガル王室の姿勢に抜本的な変化をもたらし、17世紀に人ると、貿易禁止令が次つぎと公布した。

知られている最初の法律は、1608年Ⅰ月23日に公布され、日本の布教者が商取引に関わることを厳に戒めている。そのために、日本航海のカピタンたちに聖職者の商品を受け取らないように命じている。

「親愛なる副王殿。日本のキリスト教を守り維持することは、きわめて重要なことであるが、..... そこで改宗活動に従事する人は、決して貿易に関わったり、商品を扱ってはならない、というのは、商取引は聖職に相応しくないこととして神父たちには禁止されているばかりでなく、そうすることで、彼らの教えが受け入れられやすくなることは間違いないからである。したがって、日本航路のカピタンたちには船に神父たちの商品を積み込まないように訓令すること。」55

翌年、その禁止令が改めて公布された。まず、3月19日の勅令は副王に命じて、「日本の布教者が貿易に関わることを禁止し、この決定が遵守されるように日本航路のカピタンたちにその監視を要請させている。」56また、12月24日の法律では、日本の聖職者のみならず「インディア全域」の聖職者が日本に対じても貿易への関与を禁じている57。およそ1年後も状況は変わらず、1610年2月4日付けの副王宛の勅令でも聖職者の貿易関与が改めて禁止されている。注目すべき二つの新しい動きは、関税が支払われないために税関所の収入が減少していること、およびローマ教皇に対して貿易関与禁止の回勅を公布するように要請していることである。

「親愛なる副王ルイ·ロレンソ·デ·タヴォラ殿。余が受けている情報によると、インディアの聖職者たちは自らの義務を忘れて教会法の規定に背いて、商取引に関わっている。その結果、キリスト教従、異教従を問わずみなから大ぎなひんしゅくを買っており、また関税が支払われなくなって余の税関所の収入が大きな損害を被っている。..... 余は、回勅による貿易のみならず仲介者による貿易を禁止することを教皇に要請するように命じた。」58

同年同月に勅令が出されており、その中で国王はとくに日本の布教者に貿易関与を禁じ、その代償として借財支払いのために、「中国航海からの収益の半分」59を譲渡している。

しかしながち、ローマでは神父たちが教皇に国王の命令を伝えると、「教皇は、直ちにスペイン駐在の教皇大使に書簡を送り、国王にその取り消しを求めた。」60

1611年7月国王は、聖職者の貿易関与の禁止を取り消す新しい勅令を公布したという限りでは、教皇大使の使命は成功した。

「1611年7月1日リスボンで出された勅令により、陛下はその訓令で出された命令を取り消し、日本の神父たちが従来通り中国から日本に絹を輪入する取引を続けることを認める。」61

しかし、さらに同年、貿易は今度はローマのイエズス会の上層部によって禁止された。それは、「総会長クラウディオ·アクアヴィヴァ猊下の命令で、聖なる服従の徳"に従い、インディアの三つの管区の会士に対して、すべての商取引を禁止しする。」62というものである。

極東におけるイエズス会の貿易関与に関して、このように17世紀まで繰り返しポルトガル王室とイエズス会から頻繁に許可令と禁止令が公布されることは、問題を処理しなければならない側にとってきわめて面倒なことだった。

ムシオ·ヴィテレスキ神父の任期中(1615―1645年)、この問題は改めて取り上げられ、総会長が1619年フランシスコ·ヴィエイラに宛てた書簡に表明しているように「私たちが商取引することに対する数かずの不満にもかかわらず」63、彼は、日本で行われる貿易は、アレシヤンドロ·ヴァリニヤーノ神父の定めた協定に照らし合わせてみると、クラウディオ·アクアヴィヴァ神父の禁止命今には当てはまらない、と見返すことになる。

そして、3年後の1月1日の書簡64で、総会長は新しい商品を取り扱い、これまでイエズス会の商業活動が及んでいなかった地域まで取引先を拡大することを認めた。

しかし、1633年、日本およびその他のインディア地域の布教に関する教皇ウルバヌフ8世の教皇令は、第8章で布教者にいかなる商取引をも禁止したが、実際に貿易は取引続き行われていたため、この禁止令も東洋の布教者たちに及ぽした効果は限られていた。

そのため、1669年6月17日教皇クレメンテ9世は、回勅を公布して、改めて布教者たちに商取引を禁止した。この回勅が出されたことと自体が、布教者による商取引が引き続いて行われていたことを示す何よりの証拠である。

結論

この研究は、日本のイエズス会士がどのようにして商取引に参加していたのか、その活動はどのような意味を持っていたのかを明らかにすることを目指したものである。

そこから引き出される結論の一つは、日本におけるイエズス会士とポルトガル商人が同生の関係にあったということである。

イエズス会士は、布教団の経済的存続のためにポルトガル商人を必要としており、他方、商人は、ポルトガル王室を代表し、また自らの利益を代表する制度を持っていなかったためその任務をイエズス会士に委ねていた。(商人が出港した後に売れ残った商品を売りさばく任務を負ったのはイエズス会士であり、またポルトガルの利害を代表して日本の統治者に会ったのもイエズス会士であった。)

また、日本の文明について神父たちが獲得していた知識(その中でも特に言葉)のおかげで、彼らは日本との貿易に不可欠の存在となっていた。

このような相互に都合の良い共生は、イベリア半島でもローマでもよく理解できないものだった。そのため、王室とイエズス会からいろいろな命令が出される結果となった。

極東というョーロッパから離れた日本の地理的位置もその混乱と無縁ではない。

商人とイエズス会士、彼らは変わらぬ同盟関係を結び、ともにそこから利益を得ていた。イエズス会の日本追放後、ポルトガル商人は商業関係を維持できず、彼らもまた結局は追放されてしまったということからも、この同盟は相互に不可欠なものだったということがわかる。

日本との宗教的·商業的関係の終焉にもかかわらず、布教の任務を負った聖職者、絶えず利益を追い求める商人による活動領域が拡大し続けるかぎり、この同盟関係は維持されたのである。

極東の海を横断する彼らにとって、新しい商品、新しい人びとと巡り合える新しい運命がその後も開かれていたのである。

1Francine Herail? Histoire du Japon.? Des Origines á la fin de Meiji,Paris,1986,p.13.

2Kiichi Matsuda,The Relation Between Portugal and Japan,Lisboa,1965,p. l5

3Charles Ralph Boxer,Fidalgos no Extremo Oriente 1550-1770.? Factos e Lendas de Macau Amtigo, Macau,1990,p.30.

4Diogo do Couto,O Soldado Prático,Lisboa,1980,p.211.

5航海の条件の詳細については、Charles Ralph Boxer の基本的 な文献、O Grande Navio de Macau,Macau,1989. を参照。

6Idem,p.212.

7この通貨の換算には、ゴアで鋳造された銀貨に関する限り、Monsenhor Sebastião Rodolfo Delgado のGlossário Luso-Asiático の中の数値に従った。このインド研究専門家によれは、1パルダウは300レアに相当する 。

8Livro das Cidades,e Fortalezas,que a Coroa de Portugal tem nas partes da lndia,e das Capitanias,e mais Cargas que neIas ha,e da lmportancia delles,Lisboa,1960,p.95.

クルザードかレアルへの換算は、Vitorino Magalhães Godinhoの研究に基づいている。80年代には1クルザ―ドの価値は420レアルに相当し、16世紀初頭にはさらに30レアル上昇した。Os Descobrimentos e a Economia Mundial,2a. ed. ,Lisboa,1982,voI. II,pp.70-78.

Livro das Cidades,p.95.

11Luís de Figueiredo Falcão,Livro em que se contem toda a Fazenda e Real Patrimonio dos Reinos de Portugal,India e Ihas Adjacentese outras particularidades,Lisboa,1859,p.125.

この通貨の換算には、Boxerの見解に従った。ドゥカドは、クルザ―ドと等価であり、主にイタリア人旅行者や他のョ―ロッパ人がアジアで一般にクルザ―ドに変わって使用された。」

13Jean Hugues Linschoten,Histoire de la Navigation,Amsterdam,1610,p.50. 邦訳『東方案內記』(大航海時代叢書VII)岩波書店、1968年、243頁。

14)Vitorino Magalhães Godinho,Les Finances de L'Etat Portugais des Indes Orientales l517-1635. Matériaux pour une etude strctural et conjoncturel,Paris,1982p.346.

15AれurTe㏄orodeM帥os,O Esぬdoda№dtanosmos de I581-1583. Estrutura Administrativa e Económica. Alguns Elementos para o seu estudo,Ponta Delgada,1982,p.148.

16Chartes Palph Boxer,O Grande Navio de Amacau,Macau,1982,p.2.

17Diodgo do Couto,Diálogo do Soldado Prático,Lisboa,1980,p.203.

Juan Rui-de-Medina S. J. (dri.), Monumenta Historica Japoniae Documentos del Japon 1547-1557,Roma,1990,p.26.

19Sebastião GonçaIves,Primeira Parte da Historia dos Religiosos da Companhia de Jesus e do que fizeram com a divina graça na conversão dos infies a nossa sancta fee catholica nos reynos e provincias da lndia Oriental,Coimbra,1957-62,vol. l,p.313.

ルイス·フロイスは、1532年リスボン市に生まれた。1549年イエズス 会に入会し、同年インドに渡った。ゴアに入り、ジョゼフ·ヴィッキ最初の年報と見做した書簡を書いたのもこのゴアにおいてであった。「1552年には、ザビエルの中国出発後、ゴアの聖パウロ学院の校長およぴ副管区長に就いたパルゼウ神父の命により「当地(ゴア)の情報」を執筆する任務を負わされた。彼は、この任務を見事に果たし、12月1日、布教団最初の年報の名に値する最初の書簡を書き上げた。それは、非常に長く、豊富な語集と生き生きとした文体の書簡である。」(ジョゼフ·ヴィッキによるルイス·フロイス著『日 本史』の序文)。フロイスは、1563年日本に到着し、1597年7月 8日 長崎で没した。かれは、有名な『日本史』の中で布教の始まった時から1593年までの活動を書いている。

21Armando Martins Janeira,O impaclo português na civilização japonesa,Lisboa,1970. p.157. 邦訳『南蛮文化渡来記』(松尾多希子訳)サイマ出版、1971年。

22イタリア人イェズス会士、アレサンドロ·ヴァリニャ―ノは1539年キェティに生まれパドゥア大学で法学を修めた。1566年イエスズ会に入会し、1573年インドに渡っね巡察師として三度日本を訪れ、同国について数多くの作品を書いた。中でも優れているのは、二つの『要録』、Sumario de las cosas que pertenencen a la Provincia de la India Oriental (1580)Sumario de las cosas que Pertenencen a la Provincia de Japón(l583)邦訳『日本巡察記』松田毅一他訳、東洋文庫、平凡社、1973年)および日本での最初の訪間の間に書かれたAdvertimentos e avisos acerca dos costumes e catangues do Japão(1581)である。二回目の訪日に際して、Sumario de Japãoに若干情報を迫加して、それにAdiciones del Sumario(1592)という題名をつけている。最後の日本滞在中に、Apologia de la Compañia de Jesus de Japón y de la China (1598)とPrincipio y progreso de la religion cristiana en Japón(1601-1603)を著している。1606年マカオで他界した。詳細については、Josef Franz Schutte,S. T. ,Valignano's Mission Principles for Japan,St. Louis,1980. を参照。

23Sumario de las cosas que pertenencen a la Prvincia de la India Oriental,y al Govierno della... dirigido a nuestro Padre Generale Everardo Mercuriano en eI año de l579,Alexandro Valignano in Documentação para a História das Mssões do Padroado Português do Oriente/lndia(1572-1582),A. da Silva Rego (dir). ,Lisboa,1958,voI.12,p.537.

24Idem,ibidem,p.537

25歴史家ジョゼフ·ジェネスは、これらの港の領主との協定や要請について説明している。History of the CathoIic Church in Japan From its beginings ti the early Meiji Period(1549-1873),Tokyo,1959,pp.21-24.

26ジョゼフ·ジェネスによれば、志木では領主とともに約500人の領民が洗礼を受けた。

27George Bryan Souza,A Sobrevivência do Império。Os portugueses na China (1630-1754). Lisboa,1991,p.55.

28ルィス·デ·アルメイダは、1525年ころリスボンで生まれた。1548年インドに渡り、商人として成功した。こうして、1552年初めて日本に到着した。1555年9月までマラッカ、ランパカウ(浪白演)、日本の間の貿易に従事し、その後、宗教生活に入った。翌年イエズス会に入会するヒ、医療活動に献身し、豊後の病院を設立した日本語に通じ、日本各地を巡った。1583年10月没。詳細は、SUTUDIA (no.6,Abril,1969,pp.57-114)所収のPadre Diego Pacheco S. T. の研究を参照。

29Alexandro Valignano,Apologia en la qual se responde a diversas caIumnias que se escrivieron contra los PP. de la Compania de Japon y de la China. Biblioteca de Ajuda,código 49-IV-58,fólio 87 e 87 V.

30Alexandro Valignano,Sumario de Ias cosas de Japon (1583),edição critica de J. L. Alvarez-Talariz in Monuments Nipponica Monographs,no.8,Tokyo,1954,pp.42-43.

31Valignano,Apologia e caIummias,folio 87 e 87 V.

32Monsenhor Sebastião Rodolfo Dalgado によれば、ピコは極東の重量単位で100カテ、また60キログラムに相当する。語源は、ジヤワ語のpikul「一人の人間が担ぐことのできる量」である。Glossário Luso Asiático,Coimbra,1921,vol.11,p.208.

33Valignano,Sumario de las cosas de Japon,pp.331-339. 邦訳、前掲書、152頁。

34Idem,p.338. 前掲書、148-153頁。

35Idem,pp.334-335. 前掲書、148-149頁。

36ldem,pp.335,前掲書、149頁。

37Treslado de huma Carta que o Padre Visitador de Japao Luís de Gama escreveo a Nosso Muito Reverendo Padre,BibIioteca da Ajuda,Código 37-IV-56,fólio 199.

38Idem,fólio 199.

39Idem,fólio 200 V.

40Idem,fólio 203.

41イエズス会士の不幸は、1587年最初の布教者追放令と長崎の支配権の喪失とともに公式にはじまり、1613年のキリスト教禁止令公布間で絶えず迫害され続けた。

42ポルトガル人の貿易を管理する最初の措置が公布されたのは、1604年の事で、その後、その他のョーロッパ人に対して貿易の許可が出ざれて(1609年オランダ人、1613年インギリス人)、日本におけるポルトガル人の絹貿易独占に終止符が打たれた。

43Treslado de huma Carta,fólio 204.

44Idem,fólio 198.

45Idem, fólio 198.

46Boxer, O grande navio de Amacau, pp.175-179.

47Valignano, Apologia e calumnias, folio 88 e 88 V.

48Treslado de huma Carta, fólio 198V.

49Joseph Wicki S. T. and John Gomes S. T. (dir.), Monumenta Historica Societatis lesu Documenta Indica l585-1588,1979, vol, XIV, P. l51.

50Idem, p. l51.

51Treslado de huma Carta, fólio 198 V.

52Idem, fólio 198 V.

53A. H. E. I., Livro das Monssões no.4. Resumido no Boletim da Filmoteca Ultrmarina Portuguesa, no.3, Lisboa,1955, pp.431-435.

54Treslado de huma Carta, fólio 199.

55Raymundo Antonio de Bulhão Pato (dir.), Documentos Remettidos da lndia ou Livro das Monssões, Lisboa,1880, tomo I, pp.185-186.

56Livro das Monssões no.9,10,1l. Boletim da Filmoteca UItramarina Portutuesa no.3., p.597.

57Documentos Remettidos da India, tomo l, pp.281-283.

58Idem, pp.308-311.

59Idem, pp.343-345.

60Treslado de huma Carta, fólio 199 V.

61Documentos Remittidos da India, tomo I, pp.185-186.

62Patente de Nosso Reverendo Padre Geral Aquaviva prohibe in Virtude Sanctae Obedienciae aos nosos das três Providencias da India, toda a mercancia, Biblioteca da A]uda, Código 49-IV-56, Folio 195.

63Trelado de huma Carta, fólii 200.

64rdem, fólio 200.

Constituzione delle Missioni in Giappone di 22febbraio 1633 Urbanus Papa VIIl in Pontificia Nipponica Le relazioni tra la Santa sede e il Giappone attraverso i documenti pontifici, Roma, 1947, pp.159-164.

Breve che`roibisce il Commercio ai Missionario di 17 Giugno 1669 Clemente IX in Le relazioni tra la Santa Sede e il Giappone attraverso idocumenti pontifici, Roma,1947, pp.169-172.

desde a p. 242
até a p.