Centenário

日本の暦 ― 天、地、人の和を支えるもの (通事口 ドリゲスの視線)

市之瀬敦 訳

「和をもって貴しとなす 忤ふることなきを宗とせよ」1?

十七条憲法 七世紀

「そこで彼らはすべて学問を三つの部分に分ける(…)宇宙の三つの主要な事物すなわち、天道、地道、人道である(…)」2

通事ジョアン·ロドリゲス十七世紀

歴史が語るところによれば、聖徳太子(五七四—六二二年)は日本の統治権を得た後、次のような概念に基づき元首の政治権力を規定する最初の文章をその責任者として編纂したという――人の世の秩序とは自然の秩序の反映である。宇宙の調和が天にあり、天は地が従う能動的な原理であるがごとく、人類社会は元首の定めるところに従順でなければならない。

「十七条憲法」に記された右記の文章は、「エリ—ト」階層により強要されたシナ化のプロセスの一環と見ることができ、社会の調和的規律を確保する手段としての、元首の権力強化の法的原型にシナの宇宙観を援用しているのである。古代日本の政治思想の道徳的特徴に見られるシナの影響は、容易に理解できるように、聖徳太子に帰すことができるシナ古典に対する関心と知識によってのみ説明することはできない3。この問題の全体像を理解するためには、シナと日本の関係を深く理解する必要があることは確かであり、本研究の範囲內においても、七世紀前半に起こったいくつかの出来事に注目するのは興味深いことであろう。

百年以上の中断の後、六○○年にシナと日本の関係が復交され、九世紀までに両国間で数多くの使節団が交換された。天文学の分野では、朝鮮諸王朝に対し行われた、六世紀半ばまで遡ることができる日本宮廷の努力がその成果をあらわしはじめていた六○二年、宇宙発生論、天文学、暦法の専門家である百済の僧が、これらの学問を教授するために必要な書籍や器具を携帯し日本へとやってきた。二年後には、少なくとも五世紀から日本で使用されていたシナの暦が正式に採用されることとなった。七世紀以降日木の宮廷は(シナの宮廷と同様)、暦の制作を統括することは自らの不可欠の義務だと見なすようになった。またこの時期に、時代を六十年ごとの周期に分割する、日本正史の年代記が生まれたのである4

これらの事実に注目することは、通事ロドリゲスの作品の中で日本の暦というテーマがどのように扱われているのかを理解する上で、二つの本質的な目的に役立つ。

まず第一に、これらの事実は日本の宮廷がシナの太陽太陰暦に基礎をおいた時の区分と算定方法を最終的に選択したときの状況を明らかにし、さらにこの選択をするにあたり、宇宙論と天文学の分野での確固たる知識が前提条件とされたことも示しているからである。これから分析してゆく原典―「日本教会史』―もまたこうした諸科学間の緊密な関係を明示している。その著者ジョアン·ロドリゲス神父は、十七世紀の日本ではまだ関連付けられていた天文学と宇宙の概念(天と地)の解説に七つの章をさいている。その後になりやっと、彼はかなり長い章の中で暦の起源とその基本概念の説明にとりがかり、その次の章では短いながらも占星術に関しても取り組んでいる。従ってこれら九つの章は一つの全体を形成しており、その內的論理を理解するためには、一まとまりとして見なさなければならないのである。

第二に、上述した諸事実は、ジョアン·ロドリゲスの著作の中でなんらかの形で検討されている一連のテーマを思い起こさせるからである。三十年間以上も暮らした国の鋭敏な観察者として、彼はそうしたテーマに関する研究を、暦の原理と機能の記述にとどまらず、むしろ、暦が生まれ定着した社会と人間に関する考察により、さらに豊かなものとしているのである。

そうしたテーマにおける、日本文明の着想の源泉はなんなのだろうか。その着想の源泉を完全なものとするためにどんな器具が利用されたのか。時間概念を形作る基本的な特徴はなんなのか。自然界や社会との関係様式にはどんな精神範肩が表れているのか。…これらの問題を以下、ジョアン·ロドリゲス神父の著作に即して検討してゆこう。

暗示的であれ明示的であれ、その著作は著者の物の見方を表しているため、彼の生涯に関するいくつかの資料を紹介することから始めるのがよいだろう。さらにまた、選択された各章の內容をよりよく理解するためにも、『日本教会史』と題された作品における各章の位置づけを明確にするためにも、それらの資料はやはり重要なのである。

口 ドリゲスの東洋生涯

ジョアン·ロドリゲスは―五七七年十六オで日本に来て以来、三十三年間連続して日本に暮らした。彼は日本でイエズス会士となり、一五八○年、臼杵に設立されたぱかりの修練院に人った。政治·宗教面に見られた不安定な状況、あるいはジョアン·ロドリゲスが負わされた様々な任務により、中断されたり再開されたりした教育の起伏に満ちた道のりをここで追うことはさして重要ではない6。ここでは、キリスト教教育ならではの人文学、哲学、神学、芸術、科学そしてラテン語の学問が、日本語、日本の礼式あるいはシナ文学など幅広い学問により、いかにしてさらに豊かなものに変えられたのかを記すにとどめよう。

この学問方法は一つの布教観、順応すなわち文化的適応の概念の現れであるが、その概念は大きな議論を呼び起こし、またヨ―ロッパ人の間でも少数派であった。しかし、インド巡察使A·バリニャ―ノにははっきりとした形で擁護され、バリニャ―ノは日本を最初に訪問した―五七九年から―五八二年の間、そのやり方を実行させた。この期間、バリニヤーノはジョアン·ロドリゲスと緊密な関係を築き、ロドリゲスも彼の考え方に影響を受けなかったとは思えない7。バリニヤーノは、キリスト教を東洋に定着させるためには、それはヨ―ロッパ風の衣服を脱ぐべきであると考えていた。そういうわけで彼は、日本人の習慣、生活様式に関する知識の重要性、宣教師とその宗教を現地の住民に違和感を感じさせないものにするための適応の重要性を訴えたりもした。

東洋における宣教師立ちの大部分は同じような意見を持ち、その中には―五九○年から―六○○年の間に日本のイエズス会準管区長となったぺドロ·ゴメスもいた。―五八三年以降、府內のコレジオで教職につきながら、彼は例えぱ、日本語、ラテン語そして芸術の知識に対し同程度の重要性が与えられるべきだと述べていた8。そのゴメスは十年間以上にわたりジョアン·ロドリゲスの歩みに付き添い、若いジョアン·ロドリゲスの人間形成においてとりわけ重要な人物となったのである。その根拠の一つは、実際、我等の著者ロドリデスは日本人の言葉と週間に関するずば抜けた知識に持ち主をなったからであり―一方さらに、日本で最初に出版された西洋天文学に関する本(―五九四年)9の著者ペドロ·ゴメスは、ジョアン·ロドリゲスが宇宙学、天文学、気象学、自然科学―般を見いだした際の師匠だったからである。これらの学問の基礎には、ヨアネス·デ·サクロボスコの古典的概説書『天球論』十三世紀)があったのだが、それは[日本教会史」で最も引用回数の多い原典の一つでもある。

天分学の知識を認められていたイエズス会宣教師の数は多かったが、特に(シナ式)東洋天文学の解説に関してジョアン·ロドリゲスは、何物でもそのかわりにはなりえないくらいの深く確かな知識の水準まで達していた10

頻繁に旅行をし、日本宮廷の最高位の人々に通事として使えた際、著者ロドリゲスが知的·政治的エリートと接する機会を得たことを考慮しなければ、彼がそうした知識を獲得できた事情背景を理解することは困難だろう。こうした環境があればこそ、右記に触れた諸科学に関する、当時あるいはそれ以前の原典に直接接触することが可能になったのだが、それは宮廷こそが暦の調整を独占していたからである。同時に、宮廷に住んだ長い期間は11、どちらかといえぱ目立たないような形でなされていたが、さまざまな援助を得る上でも恵まれた時期であり、一五八七年以降その援助はキリスト教の生き残りにとり決定的な貢献を果たすこととなったのである。

ジョアン·ロドリゲスは晩年をシナで過ごしたが、その前、海外亡命生活の初期には、短期間マヵオに滞在していた(一六一○年―一六一二年)12。あらゆる状況から見て、日本からの彼の追放は、政治·行政·貿易問題にあまりにも深く関わりすぎたことが原因だと思われるが、彼の行為は「宗教的」というよりは「世俗的」と見なされ、日本人、スペィン人、オランダ人(この後二者は宮廷への影響力を互いの間で、また両者揃ってポルトガル人と争った)、さらにはイエズス会からも様々な意見、批判を受けたのである13。外交活動と布教活動のバランスを取るのが困難な時期だったのだ。

シナでもすぐにジョアン·ロドリゲスは布教活動を再開し、同時に、北京の宮廷かちイェズス会に託された布教を見守り、次のような業績によりその価値を高めたりもした—暦に発見された(日蝕、月蝕の予想に関する)誤りや、帝国の様々な土地の緯度の登録に見られた誤りの訂正。

数年後、―六二○―一六二一年以降編集された『日本教会史』は、いくつかの「誤り」を指摘しているが、それらは当時すでに、より厳密な計算に基づき訂正されようとしていたのである。しかし著者ロドリゲスはなによりもまず、暦に持ち込まれたそれらの「誤り」に発し、キリスト教教義に反する迷信の、誤解を招きやすい特徴を強調しようとしていた。ここでもまた、天と地と人に関する学問の間の不調和を避けることが重要であったのだ。

日本の暦の起源

一六八五年は時の区分、その計算方法に重要な変更を記した年であった—「初めて暦はシナ製の単純な写しではなく、日本でなされた計算と観察に基づくようになった」14。誤りの発見そして(天体の運行に関する)計算の改良の結果、江戸幕府は朝廷がより厳密な暦—「貞享暦」―を採用するように勧めたのであった。

だが、こうして日木の暦が見直される前、徳川時代真っ盛りの頃には、時間の計測方法に関しては、シナ式標準の明白な写し、そしてそれをそのまま採用したものしかなかった。

シナの暦は約十世紀間、事実上の変更はなく日本で使用され続けた。シナの暦を採用し、それを長年かけて深く同化していった歴史は、日本の暦の起源を古代シナに求めることを余儀なくするのである。

「歴史と時間が再生したとき」、すなわち紀元前三、二世紀までわれわれは遡らなければならない15。紀元前一一三年に至日の日付に変更が導入された後、新しい暦の採用が宣言された(紀元前一○四年)。漢時代(紀元前二○六—紀元後二二○年)を通し、時を暦に組み込む基本原則がすでに固定化されていたことをわれわれは見るが、それがそのまま日本に「輸入」されるのである。この輸入は、常に定期的だったわけではないが、少なくとも九世紀初めまで続けられた、元となるシナの暦との相互交流を介し行われることになるのである(また仲介役ともいえる朝鮮も介在した円)16

日本で最初に知られたシナの暦は五五四年に遡るという作者もいるが17、その前の世紀すでに使用されていた形跡があるとする者もいる18

すでに触れたが、七世紀はとりわけ重要である。この件に関する知識の獲得のプロセスが頂点に達し、六十年周期と、地球から観察された天体運行(特に太陽と月)に関する複雑な調整作用公式に基づくシナ暦が採用されたのはこの時代なのである。その頃、正確には六七六年、暦制作の任務を負わされていた朝廷は、時間の専門家に天文台を贈与している。より厳密な計測装置が次々と現れることになり、天の観測に「数の法則」を適用すること19 さらに時刻を記録することが可能になったのである20

天文学と暦の分野で見られた成果は九世紀になり、はっきりと目につくようになった八二一年と八二四年の間に「宣明暦」21の制作が完成され、それは八六一年以降常に出版され、十八世紀末まで変更を被ることはなかった。

十八世紀と十九世紀は新たな見直しによりそれ以前と区別される。全体像を言えぱ、西洋天文学に通じた知識人たちからの、そして西洋天文学の流れに乗ろうとする政治権力の側からの圧力に従うことになったということである。そこにはさまざまな面があるが、例えば、太陰暦を廃止し、時の区分が自然のリズムに依存する部分を減らそうとしたのである。しかし、これらの方策が庶民から受けた冷たい反応は、旧暦が二十世紀まで公的レベルでも寛容される事態を招き、農村部では今日でも、祭礼の日付を決定する際に利用されているのである22

ジョアン·ロドリゲスの証言

『日本教会史』の制作状況そしてその中で扱われたテ一マについて触れるとき、マィケル·クーパーは次のような考察を我々に伝えている。学芸と技芸に関する解説の中で、ジョアン·ロドリゲスは詩の分野に踏み込むことを約束していたが、「そのかわりに東洋天文学、占星術に関する奇妙な情報を大量に収めている」23

我々はマイケル·クーパ―のこの発言を議論することから始めたいと思う。もちろん、彼が明らかにした詩に関する章の不在についての考察ではない—約束が実行されなかったのは事実であるが。驚かざるをえないのは、彼が天文学と占星術(クーパ―はこの二つに関し、それは長く、複雑で、詳細にわたり、著者ロドリゲスの深い知識を明らかにするものとしている)に関する箇所を作品全体にとり「奇妙」あるいは「無関係」と分類していることである。

これらの章を含めたことの正当性は、なによりもジョアン#·ロドリゲスの言葉に求めるのがよいだろう。「日本人はシナから文字や学問その他多くの文化的習慣を受け入れたように、またシナにある多くの学芸や技芸、特に算術、幾何学、昔楽および天文学からなる数字的学芸をも受け人れた」24

中世西洋人らしい体系化によりながら、彼は天文学に関する解説を、「四科』に相当する四つの学問からなる枠組みに収めている。 そして彼は、対象とするテーマを二つの系列に分けることを選んだ。一つはヨ―ロッパ的、特にキリスト教的伝統に基づくもの―いま―つは東洋文明に基づくものであり、その知はシナ的図式に基礎をおいていた。その著作の中で、ジョアン·ロドリゲスはこれら二つの枠組みに頻繁に言及し、さらにその枠組みに関する知識を示している25。彼はそのために多数の原典や作者を引用したのだが26、これは彼のラテン語、シナ語、日本語に関する広い知識を示す作業でもあった27

分析対象となっている問題に関し、ジョアン·ロドリゲスの配慮は上述した二つの枠組みをいかに調和させるかという点に向けられていたことを確認しておくのは興味深いだろう。この意味で、彼はその二つを共通の起源に根ざすものとし、その信憑性の保証として、こう述べている。「このようなわけで、天文学と十分根拠のある占星術が、その起源を洪水以前の最初の父祖たちに持っていることは、すでにわれわれが述べたことから確かであると思われる」28。彼はさらに説明を続け、大洪水の一三一年後(すなわち紀元前二七二年、「言語の混乱」のとき)29、ノアの息子たちにより守られたこの知識は、「世界中の人類の間の調和があるように」と異なる大陸に伝えられたのだという30(それ故ヘプライ人、ヨ―ロッパ人、力ルディア人、エジプト人、シナ人、日本人の間に類似があるのだ)。彼はいま―つ付け加え、シナ史を特徴づけたそれ以降の孤立化という条件は、「その世の果て」で記憶と学問が保存されるのに貢献したという。「その最初の建国から現在にいたる間で他民族と混血せず、またその古代において他民族に支配され崩壊させられることもなく、もとのままの状態でいる」31

東洋の天文学と「良き占星術」の枠組みを西洋の両学問と基本線で一致させるのは、両地域の伝統を深く知ったときにのみ可能であった。

その接触点を構築しようとしたとき、ジョアン·ロドリゲスは様々な目的意識によって動機づけられていたと思われる。例えぱ、西洋世界に東洋科学の知識を知らしめ、同時にそれらが奇妙なものではなく、身近で信頼できるものであることをわからせることである。もっとも彼のしたことは、東洋での布教とは、福音を受けるべき民衆の文化と習慣との深い接触であり、そうした文化や習慣の知識を要求する任務であると理解していたように思える―人のイエズス会士の学問と生活の単なる成果だったのかも知れないが。この点に関し、共通する特徴を取り上げることは、お互いを近づける役割を帯ぴることにもなるが、異なる部分を白日の下にさらすことにもなりうることを思い起こしておくのも重要である。

つまり、これらの問題に対するジョアン·ロドリゲスの取り組み方について考察するときわれわれは、日本に暮らした三三年間、シナに住んだ二三年間で知り得たこの両国の歴史や社会に関し、他の者では得ることができなかった証言を提供してくれる。「東洋化された」生活に深く影響された―人の人間を認めるだけで終わりにすることはできないのである。彼がキリスト教徒としての任務をおろそかにしたことはけっしてなかったという点は考慮しておくべきである。本人自らがいっていることだが、「神の名誉とイエズス会のため以上の動機はなにもなく」32宮廷で働いたのであった。

キリスト教を定着させるという彼の目的を困難にしたものを、彼がどのように訴えたのかは後で見ることにしよう。和解を重視する環境では、そうしたものが逸脱、矯正可能な人間的誤りと見なされたとしても理解できることであった。

次の点もまた、上述した九つの章が一つの全体として分析できる理由となろう—もし時の区分に関する章全体が、人間が天の学問と地の学問を調和させるために利用した手段の一例だとすれば、次章は、これはジョアン·ロドリーゲスの見解であるが、いかに人間が「悪霊にそそのかされて多くの悪事や神への罪"を犯しながら、天と地の間の不和の原因になりうるかを明らかにしているのである。

天と地の学問

天文学が「天の上下の世界の機構をあつかう」34ことから、またその働き(思弁的天文学)やその効果(実際的天文学)を扱うことから、いったいどの「世界」のことを話しているのかを明らかにすることから始めるのがよいだろう。というのも、少なくとも表面的には、世界の複数性あるいは無限性は「異教」の数々の作者により(例えぱ、古代ギリシャの哲学者)、そしてインド仏教、あるいはロドリゲスが「釈迦」あるいは「シェキア」よ呼んだブッダ? 釈迦牟尼の教義に従う他の「教派」によっても主張されたのであるから35

宇宙観に関するこの不―致を解決するに当り、ジョアン·ロドリゲスは、仏教文学も古代文学も「多数の世界」を想定しながらも、そのうちの一つだけに人間、動物、植物が住み、一つの空、一つの太陽、一つの月、そして諸星しかないと明言していた; ことに注意を促している。「そしてその他の全てのものは、人間の(心の)なかに起こるものに関わりを持つ比楡的で神秘的な作り話であった」36し、それらの作品の中では「謎を含む象徴的な」世界として描かれているのである。そうして彼は(航海により証明されたように)37球形をした一つの世界という概念を広めたのである。

より厳密に定義された世界を対象とし、ロドリゲスはその機能の分析に専念した。彼は「上界の機構」すなわち「天界」から始め、そこには能動的な男性原理、生成消滅してゆく万物の普遍的動力因38としての天の研究を含めているのだが、その天界の中心部分は、黄道帯が分割される十二宮、恒星や惑星(その中では熱と乾の太陽と、冷と湿の月が基本的性質の源泉である)、そして天界に生命を与える連行に合わせ生じるあらゆる現象により構成されているのである39。それは秩序ある宇宙のことであり、各部分が自らの「自然な傾向性」そして宇宙全体を保持し永続化させようと努める一つのまたまりとして機能する「機構」のことでもあった40。こういうわけで、天界の運行を支配する―般的法則を見いだすことが可能だったのである。そしてその運行を(度で)計るための基準は、太陽と月がたどる軌道に一致するのであった40。太陽と月、この二つの運行の観察、そしてその調和にこそシナの暦は基礎をおいているのである。

「天の学問」は時の区分の基礎の一部を形成するだけであった。これは「地の学問」との関連を考慮しなければ理解できないことであろう。地は「その役目は受け入れて養うことである。それゆえ、母、女と呼ばれる」42受動的原理として特徴づけられていた。地は「天のあらゆる影響力を、その內側に受け入れる共通の容器」であ43ったのだ。そういうわけで、時間の流れに沿って十二宮の惑星と星座の位置に記されることになった変更を自然界において厳密に表現することは、暦をいくつかの部分に分割することを正当化するのである。良い例となるのは―年の季節である。「―年の四季それぞれの特性にしたがって、一年をこのように四つに分けることは妥当であり、自然である」44妥当だというのは、季節は全自然が変化の「誤りのない徴候」―気温や風から木、植物、動物の行動まで―を示すときに始まりそして終わるからである。こうして農民たちは、天気予想に合わせて農作業の段取りを計画するために、暦を歳時記として使用することが可能となったのである45

天体の合とその効果の間に「自然」で「独自」な対応が確立された。こうして「季節と人間の作業の実り多い合意」46が生まれたのだが、それは「今日まで四千年間観察を続けてきているシナ人と日本人が、様々な論拠と経験によって証明している」47のである。日々革新される理性と経験が、ジョアン·ロドリゲスが何度も繰り返し注意を促した、時の区分の基礎をなしていた48。そうして、時の区分は誰にでもできる任務として(「それを経験し注意したものは必ずそれを感じる」49)、同時に、暦の専門家に限られた古くて複雑な知識として現れることになった。実際的占星術に関する情報を含む歳時記の編集や時間計算の遂行は、その任務を与える朝廷から特典を与えられていない人々には禁じられていたから、同じ家計にのみ保持される傾向があった。その特権的地位を正当化するロドリゲスの言葉に注目するのは面白いだろぅ。「なぜならぱ、占星術は、その予言や判断によって得られる知識や学問を利用して王国を篡奪する手段となると考えられるからである」50。この危惧は、暦が至る日と春秋分を決定するなど一年の時間(太陽暦であれ太陰暦であれ)を調整し、月、日、時間を決定するだけではないことを踏まえて初めて意味をなす。シナや日本の暦が自然界で尽きてしまぅことのない、予言的な性質をもっていたことは確かなのである。人間の活動の分野への拡張は、何かしら神聖で、神秘的で、力強い性質を暦に付与していた。そういうわけで、宮廷の管轄のもと、―部の専門家に制限されることとなったのである。

人の学問 (時間、歴史そして権力)

シナ·日本の伝統では「天」と「地」は始源的原理であり、両者の関係はあらゆる物質の「生成」「消滅」の根源である。そして、相矛盾する極を調和させながら、自然界の感取しうるバランスを生み出す二つの決定的な力を形成しているのである。

天と地の活動により引き起こされる諸効果を観察することは、この二元論を広げ、第三の要素―人を付け加えることを前提とする。天と地の関係を理解しようと努める存在といぅ条件におかれた人は、宇宙の中における自らの位置を見いだしたいという願望にかられ、宇宙の秩序を乱すことなくむしろそれと協調しながらその中に入り込むことを可能にする手段を作り出そうとするのである。

この意味で、ジョアン·ロドリゲスが、キリスト教の思想範疇に当然無縁ではない三要素(トリニティ)をなす「宇宙の主要な三つのこと」として、「天、地、人」に言及したのもまっとうなことだと言えよう。

「人の学問」の分析に人り、ロドリゲスはシナと日本で時の区分がどのような形でなされるのか詳しく記述している。期間の広がりという、まさに人間的な次元での記録、こうしたテーマは、政治権力の確立に緊密に結ぴついた、歴史、時間の記憶をいかに体系化するのか、その方法にジョアン·ロドリゲスをのめり込ませることとなったのである。

時の区分とその算定に関する計算は、印刷された形で「毎年作られて国全体に分けられる暦」51にまとめられていた。

基本単位として「小さな午(太陽年と太陰年)」をもちながら、西洋のプラトン年に似ている「大きな年」がそこにかぶされていた。「大きな年」は十二の期間、すなわちそれぞれが―万八百年の十二宮により形成されると考えられていた。したがって、そこには合計十二万九千六百年が当てられ、その年月にそってカオスからコスモスへそしてまたカオスへと戻る輪が完成されるのである。宇宙発生論と時の区分はこのように、天、地、人そしてその他万物の(完成化に向かう)創造活動、次にカオスへと向かう宇宙の消滅という時間経過を記す循環論に基礎をおいていたのである52

宇宙の発展的かつ螺旋的運動の循環論的概念(「無からは何も生じない」53と信じられていた)は暦に見られる他の時の区分の中にも常に姿を見せていた。その循環論的な概念は、地上の十二種の動物と天の十の要素との組み合わせからなる六十年周期が連続して繰り返されることにも表されていたのである54。「暦作りの名人」により、七世紀以来―二六○年間の一まとまりとされた、それら六十年周期の連続は別の種類の「大きな年」55を形成していた。

これらの周期すべては、地球をまわる太陽の運行と月の回転に基づく一年をその単位として持っていた。太陽年に関して言えば、そこには「三六五日と二五分すなわち四分の一日、彼らの時間では三時間、我々の時間では六時間」56があてられていた。太陽年は一年の四季に相当する四つの部分に下位区分され、四季の中間には春秋分(春と秋)あるいは至日(夏と冬)が記されていた57。一年の他の部分(それぞれが我々の言う十五日からなる六つの部分に分けられる)には、黄道帯上の三つの動物宮(すなわち「次」)、農業の段取りに適したいくつかの気候特性があてられていた。ジョアン·ロドリゲスの著作に含まれる情報は、「テオドラ·ラウ」58に見られるものと一致する表Cを制作することを可能にしてくれる。

 

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一年の四部分

一年の最初の部分  

一年の终ち部分  

        

    性質      

          

            

            

夏          

            

            

秋          

            

            

冬          

            

 十五度水瓶座     

 二月五日         

                  

 十五度雄牛座     

 五月七日         

                  

 十五度獅子座     

 八月七日         

                  

 十五度水瓶座     

                  

 十五度雄牛座   

 五月六日       

                

 十五度獅子座   

 八月六日       

                

 十五度蠍座     

                

                

 十五度水瓶座   

  二月四日      

虎(兎)竜

          

          

蛇(馬)羊

          

          

猿(鷄)犬

          

          

猪(猫)牛

          

   冷湿熱     

              

              

   熱乾湿     

              

              

   熱乾冷     

              

              

   冷湿乾     

              

 

太陰年は三五四日、より正確に言えば、二九日と三十日の十二ケ月に分割される三五四日八時間四十分三三·六秒の長さが与えられていた59。太陰年と太陽年を両立させるために、二年半ごとに「閏年」が加えられ、その午は三八四日の長さ、つまりやはり閏月である一か月を増された年となったのである60

ジョアン·ロドリゲスは、この時間調整および太陽太陰暦年そしてそれに対応する月の決定は、大洪水前の父祖たちの創作であり、後にへブライ人、力ルイデア人、エジプト人、ギリシャ人、ローマ人に伝えられたのである61。同様なことは週への月の分割62、週の一日、一時間への分割に関しても言える。

自然日(西洋では二四時間、東洋では十二時間続く)と「人為日」~太陽が出ている「東洋の六時間」(「西洋の十二時間」)の期間に等しい「人間生活に共通な世俗上の日」63~の間に区別がもうけられた。さらに各時間は十五分に区分され、それぞれに月や年と同様、動物宮の名称が付与されていた64。なぜそれらの動物なのか? 伝説によれば、地上から出発する前にブッダはあらゆる動物を召集した。十二頭だけが見送りに姿を見せ、ネズミに始まり猪に終わる、時間区分に使用される順番で到着したのである65。しかし、一日の時間の名称と算定方法はこれだけではなかった。ロドリゲズは「日本人はこの方法の他に、また別の方法を持っている。これは一般的なもので、ヘブライ人やカルイデア人のやり方にも似ており、また昔のシナ人の用いた方法でもある。それを現在教会もまた祈祷時に用いている」66

われわれは『日本教会史』に紹介された時の区分と接したこともあり、またジョアン·ロドリゲスが絶えず示した、東洋と西洋の「思弁的天文学」の間に見られる「不一致を避ける」ための気遣いを見ても、ここで関心の対象になっている時間概念の基本的特徴を明確化しておくことは興味深いであろう。

シナと日本の社会では、天文学的(周期的、反復的、循環的)時間の中でさまざまな生活要素が強調されるのだが、その時間は定期的に革新される自然のリズムの継起―種蒔き、刈り入れ、四季の開始と終わりを記す時間―により区切りがつけられていた。農村社会―般によくあるこの生活様式は、西洋キリスト教社会に代表される都市社会に侵入してゆくもう一つの生活様式にどちらかと言えば対立していたが、こちらは都市での生活と労働による独特の要求の成果であり、教会により進められていたキリスト教化の目標にも―致していた。確かに、この教会という組織は、直線的、計測可能で進歩的な時間というユダヤ的概念の拡張に大きな役割を果たしたのであった67

これまで分析された各章は、西洋と同様、日本における教会もそうした時間概念を植え付けようとする方針に従っていたと想定させるいくつかの手がかりを提供してくれる。この意味で、カオスから宇宙(コスモス)へ向かい、またカオスへと戻る運動の周期的特徴を形作る宇宙発生論的概念に対する批判も理解できるのである、というのも、救済をもたらす時間は進歩的であり直線的であるからである。同様に、時の区分の算定そしてそれに関する知識を統合する器具の記述に見られる細かさと厳密さも理解できよう、なぜなら、天文学、暦の製作、それらの器具の設計技術は、正確で、計量化され、機械的な時間を正当なものとみなし、かつ利用するからである。最後に、太陽太陰年暦の時間を教会の時間にすり合わせることもまた(人間の労働時間を計る必要の増大化したことの表れと言えようが)、やはり計測可能な時間を植え付けるためのプロセスのうちに位置づけることができる。

時間の枠組みの中に社会を組み込む(すなわち歴史性ある生活を築く)ときの形式は、時間がどのように考えられているのかという方法に直接的に関わっている。シナ文明を中心とした「東洋的時間と人間」68に関する研究において、ジョゼフ·ニーダムは「区分けされた時間」と「継続的時間」に基づく歴史記述が並行して存在することを弁護している"69。彼は、王朝そして国王の名称を年号区分の主要な基準とすることの起源は紀元前十一世紀半ばにあると位置づけ、さらに、この習慣を道教、仏教、新儒教の思想家が支持した周期的時間と結び付けてもいる。また彼は、この歴史記述の形式に、六、七世紀にもう一つ別の形式が押しつけられたとしているが、その存在はそれ以前に確認できたとしても、支配的になるのはこの時期でしかなかったのである。この新しい方の区分方法は、文明史、統治形態の歴史などの諸分野における、因果関係を基礎とする叙述の中に見て取ることができる。それらの叙述はより学識的な儒教、宮廷の天文学や年代学研究室職員の調査をふまえた理論化から生まれたのである。そして「無からの」創造の否定とは別に、組織化された、直線的、進歩的、発展的、機械的時間の発達へと導いたのだと思われる。ニーダムは「まとめれば、シナはインド? ギリシャ文化よりイラン·ユダヤ·キリスト的文化により近かったのだ」と結論づけている70。しかし、日本に関しても同じことを言うのだろうか。ここでもクレイオーは好きなように日本の衣装を着るのだろうか?

シナ·日本文明における時間と歴史を解釈するための、これら二つの形式の定着ぶりを検討することは、さまざまな情報源からくる証言に関する突っ込んだ研究を意味しよう。それらの情報源は、さまざまな時期、異なる場所(農村と年)そしてことなる社会階層において見いだされるべきである。この点は本研究の目的ではないため、我々の原典すなわち『日本教会史』の中で選ばれた九つの章への、以上の概念装置の応用可能性を検討するのみにしょう。日本の過去に関する情報源をあたるうち、ジョアン·ロドリゲスは右記に分析された時間概念を示す典型的な出来事の記録に出会った。彼はその記録様式のいくつかの特徴、例えばその目的、伝達手段、記録が基礎とする計算単位、記憶保持に固有の動機などを指摘している。

記録された事実に注目することから始め、ジョアン·ロドリゲスは、それらの事実が日常生活の通常のリズムを崩すものに一致すると確認した。選択されたものの一例として、「彗星などの他の天体現象もすべて注目されたように、蝕もその年たまたま起こった注目すべきこととして」71「王国の公式年鑑」の中に含めていることがあげられよう。

これら過去の出来事の伝達形式について、ジョアン·ロドリゲスは口承伝承の中にその信憑性の支え見けだしている。この意味で、そして先に触れた異常事態に関し、彼は「日月蝕を推算する科学は、シナ人の間ではきわめて占いものであるが、日本人はそれをシナ人から取り入れたのである」と明言し、「教養のない一般民衆のなかに数多くの伝説」72の創造を暗示している。しかし記憶を永遠に伝達するには書き写しに依存するしかないことは意識していたようである。文字という支えの重要性を明らかにするために、彼は再び日月蝕の計算に戻り、それらの現象の予測を含む、暦に見られるいくつかの誤りに言及している。古代シナの首都のために行われた計算の誤りが日本中に定着してしまい、その理論的脆弱性が残されたことにジョアン·ロドリゲスは警告を発している。「彼らの祖先はそのことについて立派な知識をもっていたと思われる。その知識を伝える書物は、新たに専制政治をしいて国を奪ったシナの-人の暴君(秦の始皇帝)が、わが主キリスト降誕前二―○年に、古代の記録を絶滅させ、それを自分の一族のもとにだけ残しておくために行った焚書によって消滅した」73。つまり、ロドリゲスは知識伝達の断絶の責任を文字という支えの消滅に帰しているのである。

この引用の中でもう一点興味深いのは、ジョアン·ロドリゲスが「焚書」を紀元前二一○年のことと定めることにより、正確に計算された直線的時間の概念を明らかにしていることである。この彼の考え方は、シナ·日本の史書に(支配的であるか否かは別に)強く植え付けられた現実に関し持っていた知識から切り放すことはできない。分析の対象になっている歴史的叙述に関する第三の特徴は、世代的かつ生物学的な記録単位である。実際、周期的時間に基づく年代記的叙述がしばしば、通常は王であるが、有名人物への言及により正確な日付にとってかわっているのである。ジョアン·ロドリゲスはこの事情を記し、「彼等は紀元というものを持っていないからである。別の言葉で言えば、彼らの紀元(年号)は現に統治している国王の名称なのである」74と明言している。フランシス·エレイユによれば(各皇帝の即位から数えての)「治世」そして「時代」は年を教えるのに最もよく見られる方法であり、六十年周期による区分に彩りを添えたのである75。日本史を通し、新時代の宣言は皇帝の特権であった76。この特権の獲得は最初から日本の正史の確立と混同されてきた。それを理解するには、七世紀に編集された『日本書紀』が日本史の開始点として(本当は紀元三世紀に生きた神武天皇の即位の年とされるのだが)紀元前六六○年を指摘していることを思い起こせぽよいなるう。

というわけで、早くから天帝と史的記録の間には緊密な関係があったことがうかがえるのである。ここでは、通事ロドリゲスの叙述中に見て取れるように、日本史の第四の特徴を完成させるために、過去の記憶の固定化に君主達が熱心になった動機の理解に務めることが大切であろう。最初に見たように、中央集権化の目的に役たち、暦の製作の担当を宮廷に負わせることとなった文章である「十七条の憲法」の制定に、この動きは―致しているのである77。この任務専用に、その職には専門の職員(王家数学者)がおり、暦に規定された時間を実効化させる儀式、式典を執り行った78。その結果、君主は「天子」、「時の帥」、「暦のただ―人の帥」という称号を獲得したのである79

『日本教会史』の中で、ジョアン·ロドリゲスは自分が観察したこうした社会の構造的·構造形成的特徴をさらに明確にしている。彼は言う、「彼らの行動において万物の親たる天地を模範とした。この天地の最初に生んだ子が人類最初の男女であって、世界の他のものの首長となり根幹ともなったと考え、その正当な後継者を彼等の国王であると考える」80。自然界の社会·政治的調和は、天と地の調和の学問の基礎―天文学に記された天の秩序をその枠組みとして持っていた。その調和が、固定され集中化された永続的な調和性原理(天)の活動を介してのみ可能だったように、下界(自然界との関係における人類社会)の秩序も王が「天にその行動原理を求める」81時にのみ実現可能となるのであった。これらの原理は「道徳·公民的法則」に翻訳されねばならず、その法則に関し社会は「受信機」となるのである。広く永遠と見なされるこの課題は、どうしても時間の広がりの中に記されねばならなかった。そしてそれは定期的に革新される時間により調節され、同様に毎年暦を介し民衆のみに晒されるのであった。これは現在の時間(そして宗教的行為により未来)についてであったが、というのも過去に関しては他の手段に依存していたからである。「歴史は全体的な画像を用いて描かれた暦と異なることはなく」82、歴史は時の区分に関する「思弁」から生まれるのである。

まとめれば、君主は人の時間を運営するために世界の時間を利用し、それは人類社会が調和の中で活動し、その構成分子間、宇宙秩序を前に不和を避けるためなのであった。

偽リの科学

八つの章にわたりジョアン·ロドリゲスは、西洋伝統と東洋伝統をその根底から調和させるような言説に我々を慣れ親しませてくれた。「思弁的天文学」の分野で、そして宇宙論を扱うときでも、彼は歴史的「連続性」を証明する諸特徴を強調することを選んだ。「世界の単―性とその形態」の場合のように、矛盾する資料に出会ったときでも、それらは比喩的で神秘的な作り話によるものだと指摘し、彼は自らの立場とは異なる意見の特色を弁護した。他の場合でも、「天、地、人」の東洋科学において明白な不正確さや誤りを見いだしたが、それらを愛情をもった扱い…他の間頭に移るのだった。

「実際的天文学」の説明においては全てが変わる。その論調は明らかに批判的となり、自ら進んで非難調とさえなる。ジョアン·ロドリゲスは、「惑星、星、そのほかの運勢の諸相に依存する迷信」83から、(その弁護役を引き受ける)西洋キリスト教的概念を区別する相違を指摘することにためらっていないのである。

ロドリゲスは「実際的天文学」の史的起源を探ることから始め、「大洪水」前の最初の父祖にその起源を見いだしている(つまり「理論天文学」に関する結論とにている)。その頃は、「実際的天文学」は、「天体の運動、合や星相などが、下界のものにどのような結果を作り出すかを教える」科学に相当し、にの学問は…経験によって得られた自然の理に基づいていた」。84要するに、「十分根拠のある占星術」であり、それは「よき目的」をもっていたのである85

「カインの悪しき息子」たちがカルディア人にこの科学を伝えたとき、その腐敗が始まることとなり、それは次にシナへとわたったのである86

こうした経路を辿り、シア人と日本人は「無益的」、「占星的」、「予言的占星術」を獲得することとなったのである87。『日本教会史』の著者ジョアン·ロドリゲスは「占星術」に大きな三つの種類を認めている。彼は最初に「自然的魔術」に言及しているが、それは受胎と誕生の瞬間に記された天体の会から、個人の本性と運命を予想する方法として理解されていた。「多くの人々は避けることのできない違命という妄想にあざむかれて」88いるというとき、ジョアン·ロドリゲスは、神の造物である「人間の自由」などのキリスト教的基本理念にそぐわない概念を打倒しょうとしたのであった。

「個人の運命」に対し天体がおよぼす決定的影響、という点に関しても同様の批判が、「占星術」の二番目のタイブ―予言的「占星術」89―を扱うときにみられる。天体現象という同じ判断基準を日常生活にも応用し、あらゆる種類の行動に対し吉日厄日を決めようというのがその占星術であった90禅仏教の支持者、本多正純との対話において、ジョアン·ロドリゲス神父は非常に単純そして明快に、そうした行為に関し自分の考えを明らかにしている。「キリスト教徒にとり不運な日とは、旅先で土砂降りになった日のことである」91

最後に、ジョアン·ロドリゲスは「地上のことに関する占星術」の全体像を考察している。住居、墓地、他の建物に適用される土占いとして、それは「好影響が支配する場所を発見し、逆の場合は、良い結果を達成できるように、人工的手段により環境を変える」92ことを目指していた。さらにそれは、自然に関する汎神論的な概念、宇宙の三要素(天、地、人)間に相互作用が構築される連続的宇宙という観念をも反映していた。すでに分析されたように、「無から」(すなむち創造主神から)の創造を否定の宇宙観は、キリスト教には受け入れられないものであった。

ジョアン·ロドリゲスによれば、「占星術」を介し植え付けられた「誤り」は、「神、宇宙創造、精神的実体と人間の霊魂および不可避の運命などに関して」93、との五つであった。これらの誤りがどれほどキリスト教教理の核心に反するか、この要約からも明らかであり、我らが著者ジョアン·ロドリゲスの言葉に見られる力強さ、そしてさらには荒々しさも驚くにはあたらないのである94。彼の言葉は次の二つの事実を反映している。一つは、シナ、日本社会において、そうした信仰や実践がかなりしっかりと根を下ろしていること。これは、毎年印刷され、庶民に配布される暦に、そうした実践に欠かせない情報が含まれていることに大きな原因がある。第二に、ジョアン·ロドリゲスが布教活動に全力を尽くしていたことである。この布教という任務は、福音を施すべき他者に関する知識と切り放すことのできない要素として、矛盾するとしても表面的しかすぎない次の二つの方向性を前提としていた。それは様々な物の見方を調和させ、かつ「正統性」や教理の純粋さを強調することであり、こうしたことは布教が開始された文化や民衆との関わりの深さにより可能となったのである。

共通点と違い

世界との関連において、人間は時間の広がりの中に位置づけられることになる。いかなる人間の活動も、時間の現実と出会うとき、その時間を計測する必要を呼び起こすのである。 現在の生活領域であれ、現在との関わりでなされる叙述(過去と未来)であれ、宇宙との関係様式を最良の形で表してくれる時の区分に適した基準、単位を探り出さなければならない。

本質的に太陽と月(天の時間)という二つの天体の運行、さらにこの二つの天体が地上世界におよぼす効果にその基礎をおくことから、暦(人の時間)に表される時の区分は、宇宙秩序の組立役となる。

『日本教会史』は、日本とシナで使用される暦が「宇宙の主三要素、天、地、人」の調和のためのいかなる手段となっているかに関し、貴重な証言となっている。貴重だというのは、まずシナ、日本の言語、文化との長きにわたる接触から得た深い知識からもたちされた証言だからであり、そして直接の生活体験と学識を結び付けるからなのだが、さらに、その学識に関する分析的な解説というのは受け継がれてきた情報の源へと常に言及しているのである。

そういうわけで、ジョアン·ロドリゲスには、東洋人の思考を組み立てる諸範疇を直感で推測することを可能にする有利な条件がそろえられていたのである。この課題はロドリゲスが生まれ育った西洋キリスト教的伝統—「理性と経験に基礎をおく」古い知恵が東洋と共有する類似した諸特徴によってさらに容易なものとされていた。

ロドリゲスは宇宙秩序に関する諸概念を、人類秩序に観察される具体的な計画や行動に入り込ませている。暦における時の区分は、政治権力と歴史の構築への関わりにおいて表される「道徳的かつ公民的機能」を持っていたとジョアン·ロドリゲスが結論しているのはこの意味においてであり、さらに、この歴史はその公けの面では国家のアイデンティチィと権力の強化に関連づけられてもいた。

分析された各章において、異なる二つの伝統の間に見られる史的連続性を際立たせ、かつ深めることは、違いを明確にすることとは弁証法的関係に入ることとなる。もっとも、そのさまざまな規則が暦に書き込まれている迷信的かつ予言的な行為に「―方が表されるという意味において、その「―方」は孤立化へと追いやられるのであるが。

従って、こうした問題は、「悪魔が…このみじめで盲目的なおちつきのない異教性を現世のこうしたはかない事柄のなかに引込むときの根拠とする、神への数多くの冒涜」を告発し、打ち負かすというジョアン·ロドリゲスの明白な意向と切り放して考えることができなくなるのである。

そうしてまた、ジョアン·ロドリゲス自らが解決を図り、弁護した天と地の調和は宗教的、使徒伝承的、福音的意味合いを帯びることとなったのである。

このようにして、天文学、時の区分、占星術に関する各章にみられる形式の內的一貫性、そしてそれらを『日本教会史』に収めたことが正当化されるのである。

                              表B                                       

    基本性質       位置        特性       惑星       基本的源泉         

    火性           南          火         火星       太陽(熱と乾)     

    木性           東          木         木星                          

    地性           中央        地         土星                          

    水性           北          水         水星       月(湿と寒)       

    金属性         西          金属       金星                          

                               表D                                      

日本名  シナ名     ボルトガル名       われわれ名      日本の月      

  子    ツ         ラト                  デゼンブロ      十一月       

  丑    チュウ     ヴァカあるいはト—ロ  ジャネイロ      十二月        

  寅    イン       ティグレ              フエヴエレイロ  一月または正月

  卯    マオ       レ—ブレ              マルソ          二月          

  辰    シン       セルペンテ            アブリ—ル       三月          

  巳    ス         コブラ                マイオ          四月          

  午    ウ         ヵヴァ—ロ            ジュ—ニュ      五月          

  未    ウィ       ヵルネイロ            ジュ—リョ      六月          

  申    シン       ブジ—オ              アゴ—スト      七月          

  酉    イエウ     ガリ—ニャ            セテンブロ      八月          

  戌    シウ       カン                  オトウ—ブロ    九月          

  亥    ハイ       ポルコ·モンテ—ス    ノヴエンブロ    十月          

                   とジャヴアリ—ス                   (以上陰曆)  

                                      表E                                       

  宫                                                      対応する時間          

  子…………………………………………………………………二三·○○  —    一·○○

  丑……………………………………………………………………一·○○  —    三·○○

  寅……………………………………………………………………三·○○  —    五·○○

  卯……………………………………………………………………五·○○  —    七·○○

  辰……………………………………………………………………七·○○  —    九·○○

  巳……………………………………………………………………九·○○  —  十一·○○

  午…………………………………………………………………十一·○○  —  十三·○○

  未…………………………………………………………………一三·○○  —  一五·○○

  申…………………………………………………………………一五·○○  —  一七·○○

  酉…………………………………………………………………一七·○○  —  一九·○○

  戌…………………………………………………………………一九·○○  —  二一·○○

  亥…………………………………………………………………二一·○○  —  二三·○○

                                                                                

訳者付記

ジョアン·ロドリゲスの引用の訳文には、「日本教会史 下」 大航海時代叢書 X岩波書店)を使用しました。—訳者

1フランシス,エレイユ『日本史起源かち明治末まで日本語とその文明の研究資料』パリ フランス東洋出版―九八六年六○頁

2ジョアン·ロドリゲス『日本教会史』十章

3フランシス·エレイユ 前掲書 五八~六十頁

4同右二○~二一頁

ここで選ばれた九つの章は、--五六頁に始まり―八ー頁で終わる各章に相当する(八章―五六頁~一六○頁「日本とシナの数学的学芸について日本人はこれらの学芸をシナから受けられた」。九章一六○頁~一六一頁「特にシナと日本の天文学について」。十章一六二頁~一六四頁「特に天について、また彼らが天を分けているいくつかの段階について」。十一章一六四頁~一六六頁「彼らが天を分割している度と宮について、また赤道と黄道について」。十二章一六七頁~一六七頁「日蝕と月蝕について」十三章一六八頁~一七○頁「星および星の集合たる星座について、またそれらが天球のうちに配置される順序について」。十四章一七○頁―一七二頁「地と水およびそれらの形と、その地と水が位置していると言われる高度(緯度)について」。十五章一七二頁~一七九頁「日本人とシナ人が行っているときの区分」。十六章一七九頁~一八一頁「これら(東方)諸民族の実用占星術と、それに付随しているさまざまな迷信について」)。

6マイケル·クーパー「通事ロドリゲス日本とシナの最初のイエズス会士』ウェザ—ヒルニュ—ヨク/東京一九七四年 五四~六七頁

7ク—パ—はジョアン·ロドリゲスは一五七四年、バリニャ—ノがインドに旅立ったのと同じ船隊でポルトガルを離れたと仮説している。二人はその後日本で出会うことになるが、そこにはジョアン·ロドリゲスは一五七七年、巡察使バリニャ—ノは一五七九に到着したのである。同右 五二頁

8同右 五九頁

9アルマンド·マルティンス·ジャネイラ『日本文明におけるポルトガルの衝撃』(十七世紀から今日までの日本·ポルトガル関係に関する終章あり)第二版ドン·キショテ出版一九八八年一七一頁

10「東洋天文学に関する長く込み入った議論、シナ語と日本語の専門用語の流暢な使用は、それらに関する彼の知識が、府內で四十年前ゴメスから学んだ西洋天文学についての理解に匹敵するにちがいないことを表している」ク—パ—前掲書二○八頁

11ク—パ—によればジョアン·ロドリゲスは―五八六年から八七年まで秀吉に通事として使えたという。しかし、通事ジョアン·ロドリゲスが(秀吉と家康の)宮廷に住んだ長い期間は―五九一年に始まり、日本から追放された一六一○年に終わるのである—前掲書六七、七三、九四、一○四、一○五、二五三、二六三、二六七頁。ジョアン·ロドリゲスの使徒としての仕事と、通訳、外交官としての役割は、例えば[各自が暮らす家、邸宅に分散する日本の神父と兄弟の目録』に記録されているが、そこではジョアン·ロドリゲスに関しこう言及されている。「宮廷を担当するジョアン·ロドリゲス神父」M O N U M E N T A HISTORICA JAPONIAE I. TEXTUS CATALOGORUM JAPONIAE (1553-1654) 1975 P.505

12ク—パ—前掲書二七三頁以降

13同右二五三~二六三

14エレイユ 前掲書 二一頁

15マルセル·グラネ『中国文明公的生活と私的生活』アルビン·ミシェル出版―九八八年 四八~五八頁

16エドウィン·ライシヤウ—/アルバ—ト·クレイゲ『日本 伝統と変化』タトル社東京一九七八年十三頁。シナと朝鮮は長い間「日本が新しい知識を取り入れ」、関係を保っていた王朝であることに注意―ジョアン·ロドリゲス前掲書十四章

17ジャネイラ前掲書一七○頁

18エレイユ前掲書二十頁

19グラネ前掲書二二頁

20ジョアン·ロドリゲスは時間を知るために日本で使用される「手の込んだ」時の詳細な記述を行っている(十五章)。火時計、日時計、水時計など「普通の時計」ではないが、だからとれって機能を果たさなかったわけではなく、寺院での僧、都の宮廷職員の担当とされ、そこそこの正確さを持ち、庶民に知らせるための手段であった。この時間の知覚と時間を知らせる方法が、ジャック·ル·ゴフやE·P·トムソンのような作家が西洋に対し行った研究に明らかなものと同じく、庶民による時間(そしておそらく労働)活動の変化といかに歩を合わせて進んだかを探ることは興味深いことだろう。

21)エレイユ前掲書二一頁

22同右二一~二二頁

23ク—パ—前掲書三○八頁

24ジョアン·ロドリゲス前掲書八章

25以下を参照。八章(天体の運行に関し、学芸、技芸に関し)、九章(宇宙誕生論、宇宙論)、十三章(星と星座に関し、恒星と惑星の異なる合の地上における効果について、上述したあらゆる面を要約し、時間区分の諸方式を追加)、十五章(同様に時の区分について)

26例えばラテン語で引用する聖書、シナの物語、カリステネス、アリストテレス、プリニウス、ディオゲネス、アナクサゴラス、プトロメウ、マニなどのギリシャ·ローマの作者たちの長い一文を参照。

27全テキストを通し、ジョアン·ロドリゲスは常に中国語と日本語を並べて提示した。

28ジョアン·ロドリゲス前掲書十三章。「十分根拠のある占星術」への言及については、「無意味な迷信」、すなむち自然的魔術、「不可避な運命」への信仰偶像崇拝などの「誤り」に陥ることなく、「天界」による「自然界」への影響を扱うものを理解すべきである。これらの問題については後に扱う。

29これらの計算は八章、十五章に示された情報に基づいている。上述の文章に中に含まれた資料の間には六十年間のずれがある――最初の文章では、ジョアン·ロドリゲスは「言語の混乱」の挿話に関し、―六二○年より三八九二年前に起こったとし、―方、二番目の文章ではその日付けより三八二二年前と位置づけている。次の表(表A)では最初の数学の法がとられているが、それは、アダムから一六二○年まで五六八二年が経ったという、二つの文章の中で繰り返された情報に一致するからである。当然だが、ジョアン·ロドリゲスは聖書を原典として用いている。

    ────────── 表 A ───────────
    聖書の挿話                  日付            
    アダムの時代                紀元前四○六二年
    洪水の時代                  紀元前二四○三年
    「言語の混乱」の時代         紀元前二二七二年
    『日本教会史』の編集の時代   紀元後一六二○年
    ────────────────────────

30ジョアン·ロドリゲス前掲書十三章

31同右 十三章

32M·ク—パ— 前掲書二五○頁

ジョアン·ロドリゲス前掲書十三章

34同右 九章

35ジョアン·ロドリゲスによれば、古代ギリシャ人も力ルディア人もその概念において釈迦牟尼の教理から影響を受けたという。九章では、これらの宇宙発生論、宇宙論に関する詳細な記述が見られる。

36前掲書 九章

37M·ク—パ—前掲書一○一頁。「世界の形態」の問題に関し、キリスト教的概念(天と地は球形をしている)と、天は円く地は四角いとする儒教的論理の間に矛盾が残ったままとなる。シナの儒教的宇宙論が徳川時代まで日本で有効だったことには注意を要しよう。A·M·ジャネイラ前掲書 一七○頁

38ジョアン·ロドリゲス前掲書 十章

39東洋天文学では運行は東から西であり、西洋では逆向きの運動が考えられている。一前掲書十章。次の表(表B)は十章にみられる情報をまとめたものである。

40前掲書 十三章

十八世紀末まで日本で天道説が信じられていたことは忘れるべきではない。A·M·ジャネイラ前掲書一七○頁

42ジョアン·ロドリゲス前掲書 十章

43同右 十三章

44同右 十五章

45テオドラ·ラウ『中国占星術読本』アロウ書店ロンドン一九八一年 三頁 西洋の暦と東洋に暦の利点、欠点を比べることにより、この著者は「太陽の運行に基礎をおく西洋の暦はより一貫性があり理解しやすいが、東洋の太陰暦は季節の変化や宇宙の全生命の成長の記録においてはより正確である」と述べている(三頁)。

46M·グラネ前掲書一九一頁

47ジョアン·ロドリゲス前掲書 十五章

48分析された各章において、暦中の時の区分を基礎づけるために用いられる「理性と経験」に関する議論は、常に原点へと戻り、また繰り返したち戻られるようなテーマをなしている。例えばすでに八章にも見られる。

49前掲書 十五章

50前掲書 十二章

51前掲書 十五章

52前掲書 十章。この宇宙発生論の詳細な説明は『インドと極東の宗教 世界宗教と救済の形成』(アンリ·シャルル·ピュエシュ監修「宗教史」選集第四巻二一世紀出版二一四—二一五頁)の「古代仏教」という章にみられる。

53ジファン·ロドリゲス前掲書 十章

54前掲書 十五章。F·エレイユ前掲書一八頁

55F·エレイユ前掲書 二一頁。著者は、このもう一つの「大きな年」は、一二六○年間遡ることで、日本正史の出発点として紀元前六六○年を定めるために七世紀に使用された手段であっただろうと示唆している。

56ジョアン·ロドリゲス前掲書 八、十五章。一日には一度が相当し、-度には百分が当る。そして「―日の四分の一」は二五分に等しい。

57前掲書 八章

58前掲書 十五章。テオドラ·ラウ前掲書一三頁

59アベリノ·デ·ジェズス·ダ·コスタ神父「暦」(一)『ポルトガル歴史事典』』一巻 ジョエ

ル·セラン監修 四三五一四三八頁

60ジョアン·ロドリゲス前掲書 八、十五章

61ジョアン·ロドリゲス同右 十五章

62ジョアン·ロドリゲスは十一章で、日本人とシナ人が月にあたてる名称と、西洋暦の名称とを対照させている(表D)

63前掲書 十五章

64「日本教会史」(十五章)に示される資料は不十分で、混乱を招きやすい。一般的に言って、様々な引用文献に見られる時の区分と大筋では―致する。―F·エレイユ前掲書 二○頁、テオドラ·ラウ前掲書 一二頁。それらは表Eのようにまとめることができるだろう

65テオドラ·ラウ前掲書一頁

66ジョアン·ロドリゲス前掲書 十五章

67これらの考察は、J·ル·ゴフあるいはE·P·トムソンなどの著者の研究、そして西洋に関してはルイス·クルスにより提示された要約「中世の時間生活」『ポルトガル歴史研究第一卷十一十五世紀 A·H·オリベリラ·マルケス記念論集』ェスタンパ出版 リスポン ―九八二年 三四三~三五五頁による。

68ジョゼフ·ニーダム『シナ科学と西洋大滴定』スーュ出版 パリ 一九七三年 一五五~二○三頁

69著者によれば、これと同じ「アマルガム」は「連続する時間」という概念に支配される西洋史学にも不断にみられる。同右 二○三頁

70同右 二○三頁

71「昔はニ、三日続く彗星などの他の天体現象も全て注目されたように、蝕もその年たまたま起こった注目すべきこととして、国の正史の中に記された」前掲書十二章。またM·グラネ前掲書六八頁も参照

72ジョアン·ロドリゲス 同右十二章

73同右 十二章

74同右 十五章

75F·ェレイユ 前掲善 二二~二三頁。著者は、八世紀以降、史書は「王朝」より「時代」に頼ることが多くなったが、その「時代」とは、り規則的な間隔で時間を革新するシナの習慣の適応だとしている。

76同右 二三頁

77同右 二一~二三頁

78ジョアン·ロドリゲス前掲書 十二章

79M·グラ二前掲書 二二頁及び四○八頁

80ジョアン·ロドリゲス 前掲書 十章

81M·グラ二 前掲書 五九頁

82同右 五九頁

83ジョアン·ロドリゲス 前掲書十六章

84同右 十三章

85同右 十三章

86同右 八おいび十三章

87「ものごとを行う日の吉凶やその他の偶発事を取扱い、それらを天の状態、星相すなむち惑星相互の合などにより、また(それらと)恒星との関係で、予言する」同右九章

88同右 十六章

89この用語は我々が「占星術」という語に与える意味で使用されている。ジョアン·ロドリゲスはしばしば「天文学」と「占星術」という用語を区別無く使用しているが、その事実は、シナ人と日本人の精神における二つの概念の緊密な関係に完全に無縁ではない。

90同右 十六章。時刻、あるいは特定の状況により設定される期間などの時間単位の吉凶も決定していた。F·エレイユ 前掲書 二一頁。テオドラ·ラウ前掲書 三頁

91M·ク—パ—報告前掲書 二五一頁

92ラモン·ライ·マソ 「オ·フェン·シュィ」『レビスタ·デ·クルトゥ—ラ』詰所収 マカオ文化庁編集 九号第三巻 四年目一/二/三月号 一九九○年四九~六一頁

93ジョアン·ロドリゲス前掲書 八章

94次のような一節は著者の叙述のトーンの一例である。「各人はすべての理性や経験に反して天の影響に支配されており、その結果その天の様子次第で、悪霊にそそのかされて多くの悪事や神への罪を犯すことができるというような考えであった」(十三章)。あるいは「さまざまの手の込んだ形式を作り、もったいぶって、もっともらしくある方角に向きを変えたりして、あわれな人たちをだましている。そのあわれな人たちは懐中から金を取り出し、その予言または占いに大いに満足し、もとの状態のままで去って行く」(十六章)。さらにまた「そしてこの種のさまざまな迷信があり、悪魔はこれによって、このみじめで盲目的な落ち着きのない異教徒を現世のこうしたはかない事柄の中に引き込んでいるのである」(十六章)

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