Centenário

日本における隠れた宣教活動

フアン·ルイス·デ·メディ―ナ*

1868年7月20日から1870年1月8日の期間に子供を含む700家族以上の隠れキリシタンが最後の徳川幕府、あよび王政復古後の明治天皇時代の初期明治政府によって長崎から一掃された。2400人以上の信者が富山や名古屋といった日本の中央部から南の鹿児島に至る20の県の過酷を極めた刑務所に収容された。生き長らえた者達は1873年に許されてそれぞれの故郷に戻ったが、子供を含む664名が病気や飢え、そして肉体的、精神的拷問により死亡したのである。1

これはキリスト教徒弾圧における徳川幕府の最後のあがき言うべきものである。日本ではこの事件を最後に、1612年から明治維新の5年後に当たる1873年まで全国規模で続いた妥協のない宗教への圧政は、公式的には2過去のものとなったのである。

組織的対立 ― 織田信長の庇護

日本にキリスト教が入って来たのは1549年からであり、歴史的に見てその進出は比較的容易に行なわれたとされるのが常である。日本におけ名キリスト教が急激な危機に直面し始めたのは豊臣秀吉が博多(令日の福岡市)で外国人宣教師国外追放令に署名した時点からであるとされる。

この様な楽観的な評価は宣教師達が書き残した文章の內容を損ねるものでしかない。残念なことに彼らの書き記して書簡の全体像は我々の目に触れる無事く埋もれたままになっている。31552年1月にインドにおいてフランシスコ·ザビエルは鹿児島と山口での経験や平戸と京都を往復した旅の回想をり、そして自分の後継者達に対して、日本においてやがてやって来る迫害を予言したのである4。ザビエルの予言はそれ程の時を待たずに豊後の国や毛利家の山口の国の広い領域で、そして平戸を中心とした島々で現実のものとなったのである。5

当時、の本は戦国時代未期であり、鹿児島の島津氏、毛利元就、大友義鎮(後の宗麟)、そして織田信長等の有力な諸大名が全国平定の主役の競いあっていた。その中で若き織田信長はその強運、及ぴ武人と政治家としての類稀なる資質によって僅か15年程で全国66の諸大名中、およそ50の大名達をその指揮下に服従させたのである。

未だ美濃の国―国の大名にしかすぎなかった信長がイエズス会のルイス·フロイス6に出会ったのは1569年の春であった。慎重な戦略家であった信長は、イエズス会の人々に対してポルトガルとスペイン両王家の密命7を持っ者達ではないかとの疑念を抱いたが、その間違いに気付き、これ以後は誠実な親交を持つに至った。8教会の活動が両者の交誼を深めるのに役立ち、中でも都の教会堂はその感が一層深かった。しかしながら、1582年6月20日に信長は暗殺され、信長の居城であった安土城下のセミナリオは略奪を受け、越前、美濃、及び尾張の諸国の教会堂は破壊されたのである。

秀吉の不可解さ

信長麾下の有力武将であり、後に豊臣秀吉9として知られる羽柴秀吉は、信長暗殺の数週間後には信長に代わって主導者の地位に上がり、全国平定の偉業を引き継いだ。麾下の武将に対する秀吉の妥協のない姿勢によって、数多くのキリスト教徒の排除や離散が特に河內や高槻を中心して引き起こされ、岡山、三箇、若江では教会堂が多数破壊されたのである。10

秀吉は高山右近ジュスト11の懇願により、大坂城下に都のイエズス会士と安土のセミナリオの生徒のための土地を確保し、オルガンティーノ·ソルド神父13の仲間であるロレンソ修道士12にこの土地を委ねたのである。更に、その城中においても、自分の臣下がキリスト教信者であっても、男女を問わず臣下としてこれを認め、宣教師達とも、少なく見ても儀礼的以上の友好関係を維持したのである。

1586年5月4日にガスパル·コエリョとフロイスは大阪で秀吉に拝謁し、敬虔なキリスト教徒である小寺勘兵衛14の働きより、戦略的に重要な土地での布教を認める三ヵ条からなる特許状を得たのである。これにより直ちに、道後(四国)と下関の二つの駐在所(レジデンシャ)が生まれ、そして山口のザビエルの駐在所が再建されたのである。15

豊後のキリシタン大名である大友義統を助けるために16小寺勘兵衛を通じて行なわれた、コエリョの薩摩に対しての秀吉出陣の要請は秀吉の全国統一の構想と適合するものであった。小寺勘兵衛の指揮のもとに、秀吉軍は薩摩に対して容赦のない進撃を行なったが、府內の新しい教会堂と領內のその他の教会堂17が焼け落ちる事を防ぐ事はついにできなかっのである。

教会、贖罪の小山羊

秀吉の九州出兵は大きな成功であった。薩きは筑前、筑後、肥前、肥後、および日向から撤収し18、敗残兵は自国領內へ退却したのである。1587年5月9日、領国の北の人口にある川內の太平寺におぃて、(剃髪した)島津義久は弟の義広に少しでも有利になるように19秀吉に対して降伏してのである。この結果、弟の義広が秀吉に安堵されて兄より引き継ぃだ領土は薩きど大隅に縮小されたのである。

九州の9人の領主は秀吉に対して臣下の礼を取る、事を誓ったのであるが、秀吉打倒を意図する力を持つ地方勢力の上に自分の権力が成り立ってぃる事を知っている秀吉の慢性的な猜疑心は消える事が無かった。これらの地方勢力者の何人かと秀吉麾下の武将の幾人かがキリシタン大名で、その部下の将兵達もキリシタンであり、秀吉を排除するなめに彼らに対して多くの勢力者や武将が支援する事は可能であったのである。又逆に、予め用意周到に計算された警告が発せられれば、いつでも教会を贖罪の小山羊に変えてしまい、教会に対して効果的な打撃を加える事ができる時間でもあったのである。

秀吉は1587年7月24日の夜から25日かけてイエズス会士の追放を公布し、日本人に対して、特に前年に改宗した有力武将達に対して、神への信仰を放棄そる事を強制したのである。これと合わせてコエリョに対して同年の7月19日に行なった博多の土地の割譲を取消し、更に前年に大村氏からコスメ·デ·トレスに使用権が譲られだ21長崎の港と町20を自分のものとしたのである。長崎の町の教会堂を閉鎖し、その後には京都、大阪、堺、摂津、播磨、美濃、及び尾張の諸国の教会堂の破壊を命じたのである。22秀吉が統治していた期間に200に上るキリスト教会堂が取り壊されたのである。

秀吉、譲歩無き譲歩

前述の行いにもかかわらず秀吉は自身の貿易にあける利益を守る事を望み、追放実施を暖昧な処置で引き延ばしていたのである。ガスパル·コエリョは城中の貴婦人や秀吉の正室であり、令や追放を待つ身のイエズス会士の弁護者たる感のある北政所に対して書簡や貢物を送り、追法令実施の猶予を得るべく力を尽くしたのである。イエズス会士達は一般の人達と同じ服を身にまとい、彼らを受け入れる危険も、又それによって自らの命を失う事も厭わない大名達の領地へと散らぱっていったのである。

秀吉の態度を和らげるために、10年前にヨーロッパに派遣された4人の天正遣殴少年使節を同行した巡察師のアレシャンドロ·ヴァリナニャーノは、インド副王の特使の身分で1952年に秀吉に謁見したのである。謁見は厳粛に行なわれ、持参した贈り物にこの独裁者は喜んだのであるが、巡察師ヴァリニャーノは追放令の破棄を秀吉に講願する事は適切でないと判断をしたのである。翌日、秀吉は口答でポルトガル船が到着するまで日本に留まる事を許可したが、その間「人質として」使節随行員の十名を長崎に残して置く事23を命じたのである。

大使としてヴァリニャーノが長崎にいた間、壱岐守、鍋島、施薬院、及びその他の有力大名は京都での謁見に招かれなかった事に恨みを抱き、ヴァリニャーノの使節は偽りの使節であると誹謗したのであるヴァリニヤーノはこれに対してこの誹謗が根拠の無い中傷である事を論破したが、都のオルガンティーノと何人かの世俗の者達からは九州のイエズス会士に対して身を隠し、セミナリオ、コレジオ、及ぴノビシアドを閉鎖するようにとの連絡が人ったのである。これからの施設、それに語学校、絵画学校、及ぴ長崎の印刷所は解散する事はなかったが、何度となくその所在を替えるに到ったのである。24幾つかの教会堂は民家のように外観を変え、それら以外の教会堂は閉鎖されたのである。都の奉行はジョアン·ロドリゲス通事25に対して、イエズス会士は日本に残る事はできるであろうが、福音伝道を続けるには秀吉が死ぬまで待たなければならぬであろうと述べるに到ったのである。

これより四年後に布教活動を行なうために努力が再度試みられたのである。1596年8月14日にマカオからイエズス会司教ペドロ·マルティンス26がインド副王の特使として日本に到着したのである。その年の11月に行なわれた秀吉への謁見は壮麗なものであった。

独裁者の秀吉は、計算され尽くした偽善者の態度を以て、口答で宣教師が日本に居住する事を許可したにもかかわらず、1957年1月4日には6名のフランシスコ会士、3名のイエズス会士、およぴ17名の平信徒からなる一団が、長崎にて傑の刑に処せられるために護送の侍に困まれて都を出たのである。27そして2月5日に刑は執行された。秀吉は更に、その翌月の3月に、1587年の宣教師追放令を執行する事を書面で公布し、確認したのである。

不確かな束の間の迫害の中断、

秀吉は1598年9月16日に、自分の幼い跡継ぎのために五大老29に指示を残してその生涯を終えたのであるが、キリシタン達は慎重の上に慎重を重ねて行動しなければならなかってのである。セルケイラと巡察師は言葉を学ぶために一時的に天草の島へ身を寄せ、ペドロ·ゴメスを筆頭とする宣教師達はそれぞれの担当区域に留まり、有馬の領內で幾つかの礼拝所を再建したのである。

朝鮮出兵30が未だ続いている中で、五大老の一人であり、キリスト教の教えに対して心底では感動していた毛利輝元が居城の広島城近くに神父を置きたいとの望みを示した事は驚きに値するものであった。31実際に彼は、1600年の関が原の戦いでの彼の行動に対する処罰がなされ、その領土を周防と長門に滅らされる以前には、ペドロ·パプロ·ナバーロに許可を与え、短期間であったが山口の教会堂を再開させたのである。32

宣教師が不在でもキリシタン達はザビエルが布教した時からその信仰を忠実に守っていたのである。33ナバーロは毎年、周防、長門、豊後の国に散らぱっている信者達を訪問したのである34が、、1602年に輝元は遂に僧侶達の圧力に譲歩を余儀なくされ、布教の道は閉ざされたのである。そして3年後にはこれらの地域での最初の殉教者達が出たのである。その後には令日熊本である肥後の国で、加藤漬正35によって開始された迫害により新たな殉者達が出たのである。

日本における教会の「黄金期」

ここまでに述べてきた出来事は、ペドロ·ゴメス副管区長が1600年2月21日に長崎で主に召されるまでに見る事ができた出来事の全てでは無く、全体像の一部でしかないのである。1598年から1604年の間にイエズス会士は日本全土でおよそ8万6千人に洗礼を施したのである。36

日本の政情は激しく揺れ動き、大老達の野心は1600年10月21日の関が原の戦いへと彼らを向かわせる事となり、徳川家康を支持する者達が勝利を収めたのである。その結果、何人もの著名なキリシタンが報復の犠牲となり、その中の主要人物には小西行長アウグスティンが含まれていたのである。ヴァリニヤーナは、長崎と京の都の2都市だけがある種の行動の自由を感じる事ができると、虚しい思いを込めて書き記している。37

17世紀の始めの10年を「日本における教会の黄金期」38として見なす考え方には疑問の余地がある。何故ならぱ家康は彼の権力者であった秀吉を忠実に写し出した人物であったからである。関が原の戦いに勝利を収めた後、将軍には未だ任ぜられていなかったが真の意味での日本国の最高権力者となった家康は、1602年に托鉢修道会会士と謁見したのであるが歓迎の意を表す事は無かったのである。イエズス会会士達は秀吉時代に動転の日々に再度戻るではないかという事をこの時予知していたのである。

家康が、「当初は教会に対して好意的な態度を示し、ある機会には積極的に教会を援助した」39のは事実であるが、彼はキリシタンに対して行なわれた周防と長門での毛利輝元の弾圧(1603年)40を始めとし、天草及ぴ豊後(1604年)、薩摩(1606年)、豊前(1611年)の国々での弾圧、あるいは既に長期に渡って行なわれていた肥後や平戸での弾圧に対して終始不快の念を示す事は無かったのである。41

1606年の時点でも秀吉の出したキリシタンに対する布告は依然としてその効力を持つものであり、決して廃止される事は無いように思われた。1609年には生月の島で3人のキリシタンが打ち首に処せられ、八代では12オの少年とスペイン式に愛情を込めてぺドリコと呼ばれていた5オの子供42を含む4人が処刑されたのである。

1611年に日本イエズス会副管区は正式に管区に昇格した。43そして翌1612年は日本の教会弾圧の歴史において重要な年となったのである。駿河(令日の静岡)の徳川家康とその嫡男で江戸(東京)にいる秀忠はその仮面を脱ぎ捨てて、キリスト教に対する抱いていた謂われなき僧悪を白日の下にさらし出したのである。44時をまたずしてその僧悪の具体的実例は日本全土に広がったのである。

全国的弾圧―マニラとマカオへの脱出

キリスト教徒根絶への道のりがここにその始まりを迎え、最終的な禁教令への署名を残すのみとなったのである。1606年に将軍職を秀忠に譲り渡したにもかかわらず大御所として実権を持つ家康は、1614年1月27日に禁教令への署名を行った。博多において秀吉が最初の追放令を公布してからこの時までに実に27年が経過していたのである。京の都には1614年2月14日に禁教令が通告された。45ガブリエル·デ·? マトスは「京都と大阪の代官にキリスト教護教書を提出し、大阪を〔 〕14年2月25日に出発。秋を待たなければならない」と書き記した。46同様にディエゴ·デ·メスキータはキリスト教護教書を長崎代宮の長谷川左兵衛に届けた。47しかし何れも何らの効果を上げる事はできなかったのである。

当時、日本には149名の修道士と司祭がおり、その內訳はイエズス会士115名、フランシスコ会士15名、ドミニコ会士8名、アウグスチノ会士4名、及ぴ教区司祭7名であった。48追放者達は三月から十月にかけて長崎に集まってきたのであるが、彼らの多くは追放までの時を待つ間を利用して、密かに九州の? 島々のキリシタン信者を訪れていたのである。1614年10月28日に彼らは、長崎から近くの福田港に送られた。マカオからの正式な船以外に何隻かのジヤンクが停泊しており、これらの船に彼らは鈴なりの状態に積み込まれて出港したのである。11月6日より少し前に錨を上げ、マカオ経由で多分、シャムに向かった最初に出港した船には、三人の神父と三人の修道士以外にのイエズス会士を乗船させる事ができなかった。50残りの者たちは同月の6日に出港して3隻のジャンクに分乗してのである。51

マニラへの船には、15名の日本人神弟52を含む23名にイエズス会士か乗船していた以外に、都の此丘尼の修道女14名53と日本司祭トメ·ドス·アンジョス、および自らの意思で追放を求めた平信徒のをグループを含むその他の修道会の25名(又は26名)の修道士が乗船していた。マカオには、日本人司祭パウロ·ドス·サントス以外に、62名のイエズス会士と53名の同宿54(にの中の28名はセミナリオの生徒)が上陸してのである。

非合法の闇の中で

このように闇の中に閉ざされた日本にはそれでも、27名にイエズス会士、7名(8名?)のフランシスコ会士、5名のドミニコ会士、3名のアウグスチノ会士、及ぴ5名の日本教区司祭55が留まっていたのであるが、役人達は「外国人キリスト教徒の商人のための」ミゼルコルジヤ(慈悲の組)を唯一の例外とする以外、全ての教会堂を破壊、又は封鎖したのである。

ポルトガル国王フェリペ二世(スペイン国王としては同三世)は正式使節として三名のフランシスコ会士を任命した。56彼らは1615年の終わりに日本に到着し首都に向かったが、徳川秀忠は謁見する事を拒絶し、彼らが国內に滞在する事を拒み、ポルトガル船出港に適した風向きに天候が変わるまで使節を拘留したのである。57

1617年には、宣教師、およぴこれを匿う者は見つけ次第、火刑に処すとの新しい法令が公布されたのである。58日本国內の宣教師達は放浪者の生活のように絶え間無く居所を変えなければならなかったが、そのような状況の中で宣教師に一人であるジェロ二モ·デ·アンジェリスは、1614年から津軽に配流されていた幕府の旗本達を密かに訪れたのである。59その後、この津軽の地をディエゴ·力ルバリョが訪れている。この間、その他の宣教師達は毎年、その多くは隠密理に日本に人って来た者達であるが、全国を隈なく巡回していたのである。

非合法とされ隠密理に活動を続けている宣教師達も、又国內のキリスト教信徒達も自分達が如何に危険な時期にその身を置いているかを充分に認識していた。危険から身を守る為の慎重な対処の方法として彼らに宿を提供する家があっても十日以上は滞在せず、居場所を転々としたのである。ある者は「頭を丸め」60僧侶姿に身を変え、又ある者は侍姿に身を変える事もしたのである。

巡察使のフランシスコ·ビエイラは、コウロスが信仰の誓いを守っていないとの噂に心を駆り立てられて1618年8月18日、司教区顧問の反対も顧みずにマカオから日本にむけて出発した。61日本に着いてから、コウロスに罪を着せるかのようなこの噂は真実でない事が確かめられたので、ビエイラは安堵したのである。しかしビエイラの日本での宣教師達や隠れキリシタン信徒達への訪問は小舟で港から港へと移り行く形でしか行う事ができなかったのである。62

宣教師達は夜を昼に変え、そして昼を夜に変えながら活動したのである。63後日、コウロスは、日本全土で31名のイエズス会士(神父24名、修道士7名でこの內、8名はポルトガル人、7名はイタリア人、そして日本人が5名)と書き残しており、彼らがそれぞれ何処で活動していたかを報告している641618年に徳川秀忠は長崎のキリシタン対して寛容な態度を示すようになったが、これは長崎のキリシタン奉行が長崎における神父の存在を隠して報告しなかったために65秀忠は、有馬ミゲルの後継者の異教徒大名と同様に長崎に神父がいる事を知らなかったためである。66しかし1619年、背教者となった代官の末次平蔵は将軍秀忠と話し合い、「宣教師は外国国王の意図するところを日本において行おうとする密使であるとの理由により」自主的に国外へ退去するよう宣教師に対して説得を試みたのである。これに対し己自身の交易のみに利害を求めるポルトガル商人の中にはこの考えを支持する者達がいたのである。67

偽装による使徒の増援

一方、1615年からは迫害を受けるキリシタン達は信仰を続けるために用心を重ねる必要があり、これが役人や密偵を欺くための方法にエ夫を凝らす事に修道士、教区司祭、同宿達を駆け立てたのである。この事の顕著な例の一つに1617年のフランシスコ会士11名、ドミニコ会士4名、アウグスチノ会士2名の日本到着が挙げられる。68

イエズス会士に関しては、1968年にジョセフ·F·ジ"ュッテ師によって、イエズス会士、及び国外追放された後に再度日本に戻りイエズス会士に入った何人かの同宿の出入国、殉教、死亡、辞任に関する詳細な報告が発表されたのである。69

キリスト教に対する情勢の展望は希望を持てる状況へとは変化して行かなかった。1620年9月20日、前年にフランシスコ会のルイス·ソテロを虚偽の約束で騙した東北の有力大名伊達正忠はキリシタソに対して禁教を布告したのである。同年の11月27日に弾圧が開始された。70

キリシタンに対する包囲網は全国で狭められていった。1621年8月には長崎において、神父に宿泊場所を提供した者に対しては死罪に処すとの布告がなされ、一部の貧困者を除いた殆どのキリシタンは、修道士や同宿達に宿を提供する事を思い止まらざるをえなかったのである。71密告者に対しては130グルザードの褒賞金を与えたのである。72長崎ではおよそ150人の背教者が神父達を見つけ出すために徒党を組んだのである。73殉教者の寡婦や孤児達を可能な限り支援していた神父達を見つけ出すために。74

1622年に秀忠はその将軍職を跡継ぎの徳川家光に譲った。家光の治世の間にキリスト教に対する幕府の虐待はその頂点を極めたのである。将軍は幕閣と外国人大使を前にして、死罪を言い渡されたセバスチアン·ビエイラの書いた「信仰弁護の書」の內容に耳を傾け、宣教師が無罪である事を認めたのである。しかし、将軍の幕閣の一人が将軍に対して述べた、将軍はキリスト教を日本から根絶するとの宣誓の下に将軍職に就いた事をお忘れになってはなりません、との言葉に負けて自分の心を側近の者達に売り渡してしまったのである。75

長崎の中に包囲されて

1624年には、転向しない日本人キリシタンは、長崎を出る事も、日本に入国する事も禁止されたのである。76家光は、欧州から戻ったフランシスコ会士のルイス·ソテロも加わっていたマニラからの派遣使節団を迎える事を拒否し、1625年からはヒィリピンとの貿易は例外処置とすることを宣言したのである。77この年より長崎では成人のキリスト教への改宗、子供への洗礼、及ぴ西洋暦の配付を禁止する新しい命令が施行されたのである。この年はョーロッパの船は一隻も長崎に到着しなかった年である。78

1626年にはキリシタンに対して、商いのために用いる蓄えについてもその額を申告する事が強制されて、実質的には水野河內守の権限によってその蓄えは凍結されてしまったのである。この時よりいかなるキリシタンもポルトガル人の家を訪れたり、商人を泊めたりする事ができなくなり、「職人」はキリシタンと縁を切ちなければ職を失うという事態に陥ったのである。79

1626年度の年間書簡日く、「管区長フランシスコ·パチェコ神父、主任司祭ファン·J·ソラ神父、サダマツ·ガスパル神弟、そして病に倒れたガスパル·デ·カストロ神父は殉教の道を辿って天国へと旅立った」80のである。あるいは別に著者が言うように、あまりに多くの追求と激変と騒乱に苦しんだ幾多に困難と不自由から彼らは天国へと旅だったのである。

密偵達は熱心に日本に残っている修道士達を捜索していたが、中で彼ら密偵の多くが捜し求めていたのは副管区長のマテオ·デ·コウルスであった。彼自身が次のように書き残している。「可能な限りの厳しさで各戸を調べるために多くの兵隊〔 〕を送り込んできた。掘っ建て小屋もあばら屋も、家畜小屋も藁置き揚も、彼らの調べない所は無く、到る所を隈なく捜して回ったである〔 〕。(しかし)私に隠れ家を提供してくれた者は前もって、その者自身以外には誰も知らない洞窟を準備していてくれたのである。

「それは間ロが手のひらを四つ合わせた程で奥行きが手のひらを12個合わせた程度の広さのものであった。そこに私は、私の同宿と身の回りの世話をしてくれる従者と一緒に必要な時以外は明かりを点,けずに身を隠していたのである。食事や祈りの時、あるいは我々の仲間からの手紙に返書をしたためる時には蝋燭を灯したが、これらの用事が済むとすぐに灯を消すという生活であった。食料の差し入れは、隣にある年寄の農夫が住むあぱら屋の壁から開けてある、普段は藁束で塞いである穴を通してお碗に食料を入れて中に入れて貰うのであるが、差し入れの時は藁東を手で退け、用が済むとまたすぐに塞いでおくのである。洞窟の入口はどうしても不可欠な必要性〔 〕のために三日毎に一回だけ開けるのみであった。私は2人の連れ共にこの間の様な生活〔 〕を35日間過ごしたのである。この後は、私達を匿ってくれているこの者が用心して、隣接している掘っ立て小屋の端にある同じ間ロと奥行きめ別の穴倉に私達を移したのである。

「日中は穴倉の明かり取りから差し込む僅かな日の光を亨受し、この僅かな光で読み、書き、そして食事をしたのである〔 〕。時を過ごすために読み書きをしたのではなく、キリシタン達を手紙や伝言で励ますためにこれを行ったのである。尤もキリシタン達は私が城外の何処か近くの島に居ると思っでいたのである。数々の迫害にもかかわらずこれらのキリシタン達は共通して意気軒昂である事をその便りの中で示して見せたのである。主よ、無慈悲な狼共が哀れな子羊達に手を出す時、狼共が子羊達をどの様に扱うかを貴方は御存知でありましょう。」81

ジアンパチスタ·ポロによれば、1628年に長崎から江戸に送られたキリシタンの一団は「先の将軍」秀忠が彼らを庇護するという一時的な幸運に見舞われたのである。しかしながら一方では、ドミニコ会士一名とフランシスコ会士一名、及び多くのキリシタンが火刑に処せられて死んで行ったのである。82

極限に達した過酷なキリシタン迫害

ペドロ·モレホンは、1629年と1630年には出羽の北部地域を含めた多くの地域で、キリシタンに対する極限的な迫害の過酷さが肌で感じ取れる状況であった事を、1631年の彼の書簡に書き記している。83しかし、これより以降、家光の治世が終わるまでの期間においての迫害の過酷さは更にその度を増したのである。86

1633年には日本人の松田ミゲル·ピネダが主家の沙汰が下された三日後に死亡し85 その翌年には日本に居る宣教師はイエズス会士六名、ドミニコ会士二名、そしてフランシスコ会士の二名を残すのみとなっていたのである。86

副管区長の職にあったクリストバル·フェレイラも日本に残っていたが、既に彼は殉教の最中に信仰を棄ててipso factos修道会を脱会していた。フェレイラのこの神への背信行為を思い止まらせるために、1635年に巡察使のマヌエル·ディアスはマカオから日本に渡る事を望んだが結局、その望みを果たす事はできなかったのである。87

1636年にはイエズス会士五名を数えるのみとなっており、この五名とは管区長のジアンバテイスタ·ポロ、シキミ·マルテシノ、結城ディエゴ、カスイ·ペドロ、そして小西マンシオの五名であり、ジアンバティスタ·ポロが死んだ場合には残りの四人が順に管区長の職務を引き継ぐ権限を持つ者達であった。88

1639年8月4日にポルトガル船の日本寄港を禁止する旨の新しい布告が定められ、これを無視して敢えて寄港する場合にはこれに対して厳罰を以て処すると威嚇したのである。89翌年、この威嚇が単なる脅かしでない事がマカオの使節団が日本に到着した時に証明されたのである。将軍家光は処刑の事実を伝えるために、韓国人ミゲル力ルバリョを含む13人のポルトガル船漕ぎ手を小舟でマカオに送り返したが、彼ら以外の死罪そ言い渡された四人の使節と57人の随行員は1640年8月3日に処刑されたのである。90

1642年と1643年はアントニオ·ルビノによって編成·指揮された自殺的行為の派遣が計二回行なわれた年であった。多数の志願して平信徒を同行した十名のイエズス会士が最後の派遣された宣教師となったのであり、彼らの殉教についての詳細な知らせがもたらされたのである。91

マカオから日本を望み見て

このような迫害の事実にもかかわらず、マカオのイエズス会士達は希望を失う事はなかった。自国民に対しても異国民に対しても日本は鎖国下にあったにもかかわらず、マカオのイエズス会士達には日本の情報が届いていたのである。1648年には、取り分け特徴的な「出来事」として将軍家光が病気である事、新しい銀山が発見された事、オランダ人や中国人が長崎に行っている事、ポルトガル国王フアン四世の使節を拒否した事を彼らは情報として知っていたのである。92そしてキリンシタン達についても、フンチェスコ·カッゾロとぺドロ·マルケスが未だ生存している事93や日本人二千人以上が国外追放された事を知っていたのである。94。「Il tono de Nang-asachi ha prohibito a gli olandesi allevar colombe,por dubitar ch'adorino lo Spirito Santo rapresentato nella columba」という知らせはこっせいなものであった。95

1647年、マカオのイエズス会士達は迫害者達の手からキリシタン達を救援する道を求めて日本への中国使節団を利用する事を望んだが、中国人もイエズス会士達も何らの成果を上げる事はできなかったのである。96政局はあまりにもはっきりとしており、イエズス会の年 代記編者は、皇帝(将軍)の死、幼い跡継ぎ、幕府內の対立、三千名以上の死者等を1652年以降の要約として述べている。97

中国管区長のドミニコ会士ビトリオ·リッチは毎年、日本の情報を受け取っていたが、それは常に、信仰を守るためと、そして更に、信仰を普及させるために払われたキリスト教徒達の殉教と英雄的行為に関するものであった。多くの場所にたくさんの信徒達がおり、中でも京都の近くにはキリシタンの溢れる町があったのであるが、彼らに対しては日本の「大名達」も攻撃を加えようとはしたかったのである。

日本に住んだ事のある年老いたポルトガルのぺドロ·パジヤダレスは、1656年の5月19日に、イエズス会士のぺドロ·ポッセビノにキリシタン迫害の理由に関する報告書を手渡した。98その翌年には日本人ソウスケ·ミゲルが、大村で見つけ出されたキリシタン96名の投獄とその罪も定かでない830人が冤罪によって処刑された事を書き述べた書状を日本からシャムに送ったのである。99

商人、棄教者、そして殉教者

海外貿易の商人達に対しては踏絵の必要性を1660年に中止した,100のであるが、この年は「男達はその妻や子供達を売らなければならない飢鍾が長崎を襲っていた。これを知った皇帝(将軍)は、飢えを満たすための食料を積んだ多くの船や売買された者達を救うための銀を送り、当時の圧制的で暴虐な奉行を斬首に処すようにとの命令を出した。」101といった状況の年であった。しかし、この行為も所詮はうわべだけの哀れみを見せたものでしかなかったのである。何故なら同じ年に長崎では103名の殉教者が処刑されており、その中には礫用の十字架に母親達一緒に縛られて処刑された何人もの八歳と九歳の子供達が含まれていたのである。幾人かの侍も含まれていた。102

1661年には、「絞首刑と斬首の刑に処せられた」18名に殉教者の数は減少している。しかし、1663年は処刑されたキリシタンの殉教者が350名にのぽった忘れ難い年であり、その目撃者であった何人かのオランダ人によってこの事がスタニスラオ·トレンテに伝えられたのである。104

欧州大陸においても、肥後(熊本)と薩摩(鹿児島)の大名の軍隊が猛然と立ち向かった105戦闘によって、徳川幕府は譲歩を余儀なくされ、九州においての「徳川幕府安泰」は崩壊した事が知られていた。106

1664年には、「ouve em Nangazaqui hum incéndio aonde de setenta ruas só escapou huma,cousa que attnbuírao a castigo do Ceo. No mesmo anno e na mesma cidade de Nagazaqui ouve martyres de gente nobre,e por todos chegároa a trinta」。107

カルメルと会士一名とイエズス会士一名、日本に

1672年にイタリアでは、「I'apertura nuova del Giappone,il cui avviso ci ha tutti colmato di si gran consolazione」108という情報が駆け巡つたが、これは残念ながらあまりにも楽観主義的な情報でしかなかつた。しかし、1679年11月10日付けで、ゴリジアのイエズス会コレジオの学長マテウス·ソウターマンは、「力ルメル会士の一人で今はョーロッパに戻っている者が、あの地方(日本)に立ち寄り、その時に日本人の魂を救うために国外へ逃れず、大胆にも日本に隠れ住んでいる一人のイエズス会神父に出会ったと私に語った109とカルメル修道会の一人が彼に知らせて来たと書き残している。

この日付より一か月後、アントイネ·トーマスとアダム·ウェイデンフェルドの両名はポルトガルのコインブラにいる間に、彼らより前にフェルディナンド·ベルビエストとその他の者が試みたように、日本へ行くという企てに自らが参加する事を決心したの110であるが、何れの者も日本に到着する事はできなかったのである。1681年には、フランシスコ会士一名とアウグスチノ会士一名が商人に変装してオランダ船で日本に到着したが、オランダ人達によってその身元があばかれてしまい、彼らの手で将軍に引き渡されてしまつたのである。111

更なる志願者達

未発表の資料によれば、日本から毎年もたらされる痛ましい知らせにも欧州大陸の宣教師達や、欧州イエズス会修道士の多くの日本布教志願者達は意気消沈する事はなかった。

日本の使節団が1684年か1685年に北京に到着するであろうとの情報を知った時に、マカオと中国では神に教えを信じる者達がその希望を新たにしたのである。112事実、中国皇帝はその船数を三隻に限った日本の対中国使節団を三年毎に北京で迎えるという昔の習慣を再開する事を認めたのである。しかし、フランシスコ·ノエルもその他のイエズス会士も日本に行き着く事はできなかったのである。113これから十年後にはイシドロ·ルッチが日本行きを試みたが、やはりその志を果たす事はできなかった。114

中国では、日本でのキリシタンに対する迫害のその正当性、あるいは不当性がはっきりと知られていなかった。そこで中国皇帝はキリスト教徒追放の理由115を正すために皇帝血筋の官僚を日本に派遣したが、status quo(現状)を確認する事以外に何ら得るものがなかったのである。

北京の宮廷に派遣されたイエズス会科学者ルイス·ゴンサガは、1707年にゴアにいた時に自身の素性を隠して日本に行く事を求めたが、無為な志でしかなかった。116彼の場合と違って、シシリア人司祭ジョバンニ·B·シドッティは日本に行き着く事がででたのであるが、1581年のフランシスコ会士やアウグスチノ会士の場合と同じように、1708年8月13日に屋久島に到着すると同時に捕われて、非人道的な捕囚の身で1715年12月15日に江戸(東京)でその生涯を終えたのである。117

1732年にはマムエル·ダブレウがフランシスコ·レッツ総長に、1736年に日本に人り込むためにその準備をしている旨を報告している。118この>一年後には日本管区119において二名の中国人が韓国経由で日本に入り込むことを許可されている。イエズス会士であったこの中の一名は商人姿に身を変えて1753/1755年に日本に送り込まれたようである。120

東アジア全域におけるイエズス会の隆盛した伝道活動は1773年に大打撃を受けたのであるが、これはバチカンの影響力の高い地位にまで入り込んでいた異端的なヤンセン派によって意図的に仕組まれたものであった。教皇クレメンテ十四世によるイエズス会の活動停止の決定は、1612年から1873年まで、殉教を続けた日本にキリスト教社会の解放に棒げたイエズス会の努力を無にしてしまったのである。

1受難から生き永らえた者達の収容されていた場所は以下の所である: 加賀5名、津6名、富山7名、福山7名、松山8名、郡山9名、奈良9名、姫路9名、松江10名、上野11名、伊賀11名、高松14名、徳島14名、岡山18名、広島40名、津和野41名、高知42名、萩43名、鳥取45名、鹿児島53名、名古屋82名、和歌山96名、金沢104名。信仰の礎。浦上信徒配流100周年記念。実行委員会出版(長崎、1969年)参照。

2公式にはと敢えて述べたのは、日本では20世紀半ばまでカトリック信者に対する差別が続いてたからで、その多くはプロテスタント教会、とりわけバプテスト派のカトリック攻撃によるものであった。

3イエズス会史学研究所刊のシリーズであるMonumenta Histoca Societatis Iesuの137巻、R D M(ルイス·デ·メディーナ)著作のDocumentos deI Japon(以後、これを引用の際はD J lと記す)がキリスト教日本伝来の最初の10年間の歴史を知るのに役立つ資料である。

4「〔日本に〕行った者は多くの迫害を受けなければならなかった。何故ならぱ彼らは日本の各宗派を向こうに回して活動しなければならず、僧侶達が〔 〕世俗の者達だら金銭を引き出すための手口ややり方が如何に欺瞒に満ちたものかを世の人々に明らかにしなければならなかったためであり、そのために苦難の道を歩まねばならなかったのである。そして前述の理由や多くのその他の理由によって大きな迫害を受けなければならなかったのである。」〔 D J ldoc 57.6-7〕。

5ザビエルとバルタサル·ガゴに対する若き大名大友義鎮の好意を以てしても、僧侶に指揮された府內に住民の外国人宣教師に対する過激な行動を阻止する事はできず、布教の安全のために武装した者を不寝番に立てなければならなかった。1558年にはガスパル·ビエラが平戸から追放されたのである。

6イカズス会士とこの国民的英雄の個人的な最初の接触は、第三者の助けを借りて1569年の春に行なわれたと思われる。ルイス·フロイス神父と平戸のロレンソ神弟はその時、京都の駐在所(レジデンシャ)の復旧許可を信長より得たのである。RDM著Origins of the Catholic Church of Korea From 1566 to 1784 according to unpublished documents of the period〔ソウル、Royal Asiatic Society による優れた出版物の英語版で、以後この作品を引用する際はRDM Originsと記す)の第9章ODA NOBUNAGA DREAMS OF KOREA.

7フランチェスコ·パッシオ、1587年10月4日、ARISl〔Archivum Historicum Societatis Iesu,Roma)*Japsin l0-II 275。このJapsin(イエズス会日本通信)から引用したものは以後、*Japsin の略字とその写本番号を記す。

8織田家の家臣でキリシタンになった者は少なくなく、信長自身もキリシタンになる事を望んだが、結婚生活における信長の不貞がキリシタンになる妨げとなったとワリニアーノ〔1581年10月7日*Japin 9-I 37v〕は述べている。

9豊臣秀吉(1536~1598): 彼は頻繁に名前と位階を変えた人物である。今日、日本では姓は豊臣、名は秀吉で知られており、豊臣家は17世紀初頭に消滅した。フロイスの書いた日本史(リスボン、1976~1984)I-Vの中でこの人物の多くの伝記的資料を紹介している。パピノット·EのHistoncal and Geographical Dictionary of Japan (東京、1982年; 以後、引用の際はPapinotと記す)の中にも短文ながら詳細な信長と秀吉の伝記が紹介されている。

10フロイス21v。

11都の武将達に対するこの模範的キリシタン大名の影響力が秀吉の猜疑心を揺り起こし、1587年のイエズス会士追放令布告へと導いたのである。

12リョウサイ·ロレンソ(1525頃―1592): 平戸の村落である白石の生まれで、彼は青年時代には日本人社会で尊敬されていた琵琶法師を生業としていた。この職業にはとりわけ、盲人やロレンソのような半盲人が従事していた。1551年に山口においてザビエルから洗礼を受け、宣教師達と共同生活を営んだ。1556年頃に府內でイエズス会への入会を許可された(DJ1 doe 109)。

13オルガンティーノ·ソルド、通称O·グネッチ·ソルド(1532~1609): イタリア人イエズス会士。彼はほとんどの場合、洗礼名で呼はれており、オルガンティーノ·ソルド自筆の手紙の署名には父方の姓は使われていない。1570年からその生涯を閉じるまで日本に滞在していた。

14アリアス黒田考高

15毛利輝元は教会を敵視していたが、彼の叔父にあたる吉川元春と小早川隆景両名の助言を受入れて小寺の要請に応じ、そして山口におげるイエズス会士達の活動を認めたのである。〔フロイス· 1586年10月7日、*Japsinl 10-II 169v)。1587年の突然のイエズス会士追放今により3つの住院は儚いかげろうのようにその幕を閉じたのであった。この同じ年に、伝導に大いに尽くしてくれた篤志家の大村純忠と大友宗麟という二人の偉大な人物がその生涯を閉じた。

16フロイス1587年1月1日、*Japsin 10-II 161。オルガンティーノはコエリョを無分別な人物であ ると非難した*Japsin l0-II70。小寺は四国討伐軍の大将としてこれを平定し、秀吉の命に従わせた。

17府內のノビシアドとコレジオにいた者達が難を逃げれて入った臼杵の城が包囲されていた時に小寺指揮下の秀吉軍が到着した。この者達は1586年の12月、再開されたぱかりの山口の住院に身を寄せるために海路をとって脱出したのである。

18アントニノ·プレネスティノ、1587年6月20日、*Japsin l0-II 263。

19ディエゴ·パチェコ、スペイン東洋学者協会会報32号「薩摩隠れキリシタンの歴史概要」(マドリッド、1974年)。秀吉は7月20日に彼らを欺き、そして同月の25日には彼らの目が驚愕に見開かされる結果となった追放令を布告したとぺドロ·ゴメスは考えていた〔ゴメス、1587年9月28日、*Japsin I0-II 264〕。一方、パッシオはフロイスやコエリョと共に、秀吉は前述の日付よりずっと以前から彼らに対して偽善者の仮面をかぶり続けていたと考えたのである〔パッシオ、1587年10月4日、*Japsin l0-II 275〕。

20秀吉のように極端に複雑な精神構造を持った人物がとった突発的な決定に対して数多くの理由や原因、そして動機がこれまでに挙げられている。オルガンティーノは、長崎港を手中に納めたいという野心が秀吉を駆け立てたと考えていた〔1607年3月28日、*Japsin l4-II 278〕。ヴァニャーノの見方は、この追放令は、堕落僧の施薬院徳運がキリシタンの若者達を自分の主人の好色のために集めようとして失敗し、キリシタンを中傷する虚偽の報告を秀吉にしたので秀吉は撃怒し、その結果として追放令が出された、とするものである〔1590年10月10日、*Japsin 11-II 277及び1591年10月9日、同書 245〕。ホセ·ルイス·アルバレス·タラドリス〔TALと引用〕は、コエリョの「武装したフスタ船」に秀吉が羨望の思いを禁じ得なかったからであると述べている〔TAL、アレシャンドロ·ヴァリニャーノ―日本要約145*)。これらの何れもがそれなりの理由を言い表しているが、弁明の余地のない許しがたい一連の行動や決断を行った理由の第一に挙げられるのはやはり、秀吉自身が豊臣秀吉という姓名を使うに到る以前に認めていたように、低階層の出であるという脅迫観念にも似た劣等感であるように思われる。

22司教のセルケイラは1599年2月21日付けで、137の住院と教会堂が破壊されたと書いている(*Japsin 20-II 57)。1603年(*Japsin 20-II 153)には、秀吉の2度にわたる弾圧と、これに続く秀吉の寵愛を受けている加藤清正が行った肥後の国での弾圧による教会の損害を以下のようにまとめている: (第一回目弾圧1587年: 府內のコレジオと臼杵のノビシアドは略奪に会い、14または15の駐在所と70の教会が破壊された。(第二回目弾圧 1598年: 有馬と大村のコレジオ、ノビシアド、セミナリオ、及び54の教会堂が破壊された。(第三回目弾圧1600年: 肥後と天草で6または7の駐在所と87の教会堂が破壊された。

23フロイス371参照。

24副管区長のぺドロ·ゴメスは、1595年から1598年の間に、20人のイエズス会士を勉強を続けわせるためにマカオに送ったが、その中の何名かは司祭に任命するためであった。このようにする事によって、世俗の官憲に対して表面上は、宣教師追放令に服従しているように見せようとしたのである。

25ジョアン·ロドリゲス通事、セルナンセリェ出身のポルトガル人イエズス会士で、秀吉に対しての公式通訳者(通詞、通事)。彼に関してはTsuzu(通事)という言葉に対してTçuccu、Tçuzzu、Tçuzuといったように書かれている事もある。

261592年に日本司教に任命された。

271862年6月8日に教皇ピオ九世はこれらの26人を聖人の列に加えた。

1597年3月20日(又は24日)付けで長崎奉行寺沢正成アグスティンに送られた新しい追放令〔*Japsin 53 143v〕。シュッテのIntroductio ad Historiam Sociends Jesu in Japoniam(ローマ1968年刊、以後引用の際はIntroductioと記す)の734v。RDM著の0riginsの第14章、朝鮮のイエズス会士 ― フランシスコ·デ·ラグナと田村ロマンを参照。

29五大老と呼はれていた。Papinotの129を参照。

30朝鮮侵攻は1592年に開始され、1599年1月に最後まで残っていた日本軍が帰還した。RDM著の0riginsの第13章、朝鮮における最初のイエズス会士、および第14章、朝鮮のイエズス会士―フランシスコ·デ·ラグナと田村ロマン。

ヴァリニャーノ、1599年2月20日〔*Japsin 13-II 258v〕。

32Japsin 60 264v。

33フランシスコ·ビエイラ、1599年10月20日〔*Japsin 13-II325〕。

34黒田勘兵衛シメオンとその息子の黒田長政ダミアンの領地(小倉と中津、九州の北東部)には以前から、常に増加をたどっていた熱心なキリスト教徒の集団が存在していたのである。1600年にこの領地は細川ガラシヤを妻とし、何人かのキリシタンに改宗した息子の父であった細川忠興(長岡)の手に移った。細川忠興は1611年からは残虐なキリシタン迫害を行うようになった。

35加藤清正は、マルコ·フェラロが彼に果物を献上したのでマルコ·フェラロの教会堂を容赦した。〔*Japsin 14-II 192〕。

361604年のフランシスコ·パッシォの書簡〔*Japsin 21-1 32〕。37ヴアリニアーノ、1601年10月15日及び16日〔*Japsin 14-I 73および81参照〕。

38シュッテ著の La Civilta Cattolica(ローマ1981年I)の334頁、「II primo annuncio della fede cristiana in Giappone」。

39シュッテ著の上記と同じ引用文中。

40毛利輝元はナバロと神弟一名を追放し、再度キリシタン達に迫害を加えた。しかし町奉行は密かにキリンシタンに味方し、教会堂や住院を存続させる事を許したのである〔ヴアリニアーノ、1603年 *Japsin 25 74〕。

41九州の八代で1603年に6名の殉教者が出た。二名は斬首され、七オの男児一名を含む残りの4名は傑の上、槍刺しにされた。1605年には八代で1名と周防(山口)で二名殉教者が出たのに次いで、1608年にも薩摩で1名の殉教者が出た。

42マルコ·フェレロからアクアヴィーヴアヘ、1614年12月21日、マカォ〔*Japsin 16-I 113〕。服部ペドリコ、1609年1月11日没、亨年五オとニヵ月。

43初代管区長はバレンティン·力ルバニリョであった。

441614年から1610年にかけてのアンドレ·ペッソアのノッラ·セニョーラ·ダ·グラー サ号撃沈事件に関して家康は、「ouvindo dizer que ficarao alguns portuguezes em terra e outros escaparão,mandou que os matassem a todos & lhes confiscassem as fazendas,e que a todos religiosos daCompanhia desterrassem de Japão. E ainda depois que foi sabedor da queima da nao,morte do capitão e portuguezes,tornou a dizer que botassem os padres de Japão」〔レュッテ、Introduction 191〕、しかし有馬殿の取りなしがあった事と、ポルトガル人との交易存続とのために態度を軟化させたのである。一方、江戸においてその端を発した1612年の弾圧はこれとは別の理由を持つものである: 「Causa disto foi hum frade de S. Francisco; chamase Luis Sotelo,o qual despois de o senhor de Jappao telhes desfeita a sua igreja que tinhao em Yendo〔Edo〕,e mandando que se fossem pera Nagasaqi, ainda que os dous outros frades se forão, elle não quiz irse,e não soo isto,mas sem ter de ver com nada,aIevantou huma igreja perto de Yendo. Souberão isto os governadores por boca de alguns(estes forão huns que tinhão resebido agrávio deste frade,como hum talmocreve ao qual mandou espancar muito bem por lhe ser feito em pedasos hum buli de vinho,que com o mais fato levava no cavalo,e outros). Dixerão isto os governadores ao senhor,o quaI se agastou grandemente e mandou que matassem os que tinhão dado prata por fabrica; e assi matarão 8 cabeças destes christãos. E depois,com esta occasião,ouve publico bando que os christãos todos tornassem atras. Quasi todos assi fizerão.20que nao quizerão retrpceder morrerão honradamente martires,por christão〔sic〕. Estas são as fazanhas dos frades com as quais vão molestando e inquietando a christandade. Mandão que o frade se va pera Nova Espanha. Ao que todos dizem,a christandade nunca se achou mais apertada nem com mores prohibições que nenhum se faça christão」(ポロ、大阪1613年10月28日、*Japsin l5-II 316〕。

45バレンテイン·力ルバーリョ、1614年3月、*Japsin I5-11 323v。 シュッテ、Introductio 914 *Exilium praeconum Fidei。

46ガブリエル·デ·マトス、長崎1614年3月 21日、*Japsin 16-II 56v。

47バレンテイン·力ルバーリョ、1614年3月19日、*Japsin l5-11 42。

48デイエゴ·デ·メスキータは船が出港する二日前に死亡したので、実際のイエズス会士の数は114名であった。教区司祭にづいては、〔Monumenta Histrica Societatis Iesu〔ローマ、1975年)の第111巻)のシュッテ著のTextus Catalogorum Japoniae (以後、引用の際はCatáogosと記す)の706の注記.18を参照。

ジェロ二モ· ロドリゲス、1614年12月22日、* Japsin l6-187。

50アルフォンソ·デ·ルセナによれば八名であった。1614年の追放に関する詳細な研究であるシュッテのCatálogosの559~578を参照。

51書簡の中に記された各船の出港日には図らずも食い違いが見られる。上記のシュッテの引用文献の同文を参照。

52ガスパル·デ·カストロは他の二名のイエズス会士と共に、翌年3月に契約船にてマニラに到着した。シュッテの前述の同文献同頁に記述あり。

53都の半俗修道女とも呼はれていた。RDM著Origins第19章THE KOREAN PROTOMARTYR HACHIKAN JOAQUIN。

54同宿: 「Dojucu. Moços,ou gente rapada que serve aos Bonzos nas teras」[(用語集(長崎、1603)]。イエズス会士達は、布教活動のために修道会と強い関わりをもった独身の日本人を指すのにこの言葉を用いた。同宿という言葉はその人間の既婚·未婚に関する社会的状態を表すものであり、伝道師という言葉は職務、又は業務を表すものである。女性は伝道師である事はできるが、同宿にはなれなかった。1991年1月29日~2月3日にケルンで開かれた16世紀および17世紀初頭のポルトガルと日本と題する学会の公式報告書におけるRDMの「新しい言棄"同宿"―歴史的資料」を参照。

55ジェロ二モ·ロドリゲス、1615年3月2日、〔*Japsin l6-I 176〕。

56ディエゴ·デ·サンタ·カタリナ、バルトロメ·デ·ブルキ―ジョス、および平修士フアン·デ·サン·パプロ。

57ポロ、1616年7月21日、*Japsin l6-II 316。

58フランシスコ·ビエイラ、1617年11月6日、*Japsin l7 105。

59クリストバル·フェレイラ、1617年12月29日、 *Japsin l7 116v。津軽は日本の北部に位置する。

60コウロス、1618年10月8日、*Japsin3584。「頭を丸めた者」という言葉は僧侶の勤めに従事する世俗の者を指すのに使われ、広義的には僧侶自体を指す。

61フランシスコ·ビエイラ、1618年9月22日、*Japsin l7 158及び1619年2月15日、*Japsin I7239。

62ポロ、1620年2月2日、*Japsin 17 269v。

63ロドリゲス·ヒラム、*Japsin l7 126。

64コウロス、1618年2月25日、*Japsin 35 77。

65コウロス、1618年2月25日、*Japsin 35 81。フアン·ロドリゲスは1619年1月20日付けで、有馬、筑後、肥後、日向、およぴ天草を巡回していた四人、もくしは五人の神父に対して長崎奉行は、これを大目に見ていたと書いている。(*Japsin 17 222)。

66フランシスコ·パチェコ、1618年3月5日、*Japsin 36 114。

67コゥロス、1619年9月15日、*Japsin 35 102。

68コウロス、1620年3月20日、*Japsin 35 140。

69シュッテ、Introductio 348 ~366。

701621年3月15日付けのコウロスの書簡に拠る。*Japsin 37 114v。

71ビエイラ、1619年2月13日、*Japsin 17 234。

72ビエイラ、1619年2月15日、*Japsin 17 238v。訴人に対して褒賞金として銀貨30枚、1621年9月29日付けのナバロの書簡、*Japsin 36 65。

73コウロス、1621年3月16日、*Japsin 37 199v。

74コウロス、1621年9月28日、*Japsin 37 203v。

75ローマ、イエズス会聖職志願者任命記録文書、Copia Publica Transumpti Processus... Sebastiani Vieira ff 82v 91他。

76ジェロ二モ·ロドリゲス、1624年10月10日、(*Japsin l8-I 42)。コウロス、1625年2月20日、*Japsin 37 255。

77ポロ、1624年10月15日、*Japsin I8-I 38v。

78コウロス、1626年2月24日、*Japsin 37 233。

79コウロス、1626年10月5日、*Japsin 37 238。このような状況であったが、ある地域では人前に出る時に修道士と判る物を身に付けていたければ大丈夫であった。

80*Japsin 63 81。

81*Japsin 63 82。キリシタンはその社会的身分を、西洋の言語で賎民に当たる穢多、部落民やその他の表現で呼ばれる「第4階層」の身分に落とされたと言われているが、それでもこの身分は非人(人に有らざる者、前科者、およびこれに似かよった者)よりは上であった。従って、「第4階層」が朝鮮の役の捕虜、あるいは朝鮮、中国、インドシナ半島の海岸で和冠の頻繁な略奪により囚われの身となった者達から構成されたいたと判断する傾向は決して正しいものではないのである。

82アンドレ·パルメイロ、*Japsin 161-II 105。交易を失う事を恐れた秀忠は、神父達をマニラやマカオに送還しないようにと命令した〔パチェコ、1622年11月13日、*Japsin 38 127〕。

831631年6月15日付けの書簡、*Japsin l8-197および104。ペドロ·モレホン、(スペイン、バジヤドリッドの)メディーナ·デ·カンポ出身で1639年死亡。

秀忠は1623年1月に死去したが、息子の家光はその死を少なくとも同年11月4日まで隠し通していた〔ベニート·フェルナンデス、1632年11月4日、*Japsin 35 184〕。家光は1623年から1651年まで将軍職にあった。

85パルメイロ、1634年1月4日、*Japsin 2l-III 346。

86パルメイロ、1634年3月20日、*Japsin 18-I 145v。

87マヌエル·ディアス、1635年6月18日、*Japsin 18-II 227。

88マヌエル·ディアス、1636年7月30日、*Japsin 18-II 254。実際には、結城ディエゴは1636年2月25日に大村で死んでおり、カスイと小西は1639年に死んでいる。

89アントニオ·ルビーノ、1639年11月2日、*Japsin 38 212。

901640年9月30日付けのアントニオ·ルビーノによる使節団の死に関する報告、*Japsin 38 226。RDM著のOrigins第30章ルビーノ、アマラル、および朝鮮人ミゲル·力ルバリョを参照。

91ボス·グスタフ及びチースリク·フベルト。Kirishito ki und Sayo Yoroku. Japanische Dokumente zur Missionsgeschichte des 17. Jahrhunderts(東京、1940年)VIII-234。Monumenta Nipponica Monographsの第1巻。

921644年1月であった。*Japsin 123 204v。

93フランシスコ·フルタード、1647年4月22日、*Japsin 123 156~7トンキン。*Japsin 22 340~346参照の事。己の心ならずの転向を撤回してかツゾロは1644年11月以前に殉教死した。ここで述ベられている報告は本来、カッゾロより後に彼と同じ状況で死んでいったジウゼッペ·キアラについて述べられたものである。

941648年の日本年報、*Japsin 161-II 341。

95ジオバンニ·フィリッポ·デ·マリー二から総長のビセンテ·カラファヘ宛てたもの。1649年5月2日、トンキン。*Japsin 18 284の傍注。

96*Japsin 123 202.1652年9月16日にマルテンノ·マルティニは、Henricus Frayentius〔原文表記通り引用〕と呼ばれるルター派のオーストリア人の証言によれば、1650年においても未だに二名のイエズス会士が、江戸の獄中で、殆ど毎月のように行われる拷問に苦しみに英雄的に耐えていたのである。以前にイエズス会士であり、転向したが最後には殉教していったクリストバル·フェレイラ老人(*Japsin 22 355)以後、日本では「転向者」は出なかった。

97*Japsin 64 304。

98*Japsin 23 351。

99*Japsin 16 249。

1001655年~1656年においてもまだ踏絵をキリシタンに対して強制していた。これはキリシタンを転向した証明として聖なる肖像の上を足で踏むものである*Japsin 162 121~122,125vおよび128v。踏絵は本文記載の年より1671年まで中断されていたらしい〔フアン·B·マルドナードから総長フアン·パブロ·オリーバに宛てた1671年12月20日付け書簡参照、ローマ·グレゴリオ教皇大学、*cod.29257067~68〕が、1696年に時点では既に踏絵が再開されていた〔フアン·アントニオ·デ·アルネード、*Japsin 68 273〕、そして1716年の時点でも実施されたいた〔*Japsin 22 450〕。

101*Japsin 12 446v。

102*Japsin 上記引用文に同じ。

*Japsin 上記引用文と同じ文中。

104*Japsin 162 93~94。「Hum olandez que vejo com outros a Fukien,provincia da China,contou que vespora [ms corr. en 「pelo tempo」] da Ascenç``ao do anno de 663 forão martyrisadas em Nangazaqui trezentas pessoas,e se dizia que avia em Japão agora mais christãos do que ouvera em tempo de pax,o que bem pode ser em caso que os filhose nettos dos que então avia recebessem osanctp baptismo e fossem inStmidos nos mistérios de nossa santa fee pellos pais e avos christãos de que descendem」[*Japsin 64 402v]。

105原文では正宗と誤記している。

106*Japsin 124 46v。

107z 8Japsin 64 402v。

1081675年9月、ARSI*Med 33 323。

109マテウス·ソーターマン、1679年11月10日、*Japsin 19 87。

110ワルデンフェルド、1679年12月18日、コインブラ、〔*Japsin 19〕。アントニエ·トーマスは中国伝道の任を与えられていた。彼はコインプラに滞在中に、当時人り込む事が不可能だった日本へ行くために、修道会の総長から赴任のルート変更の許可を得たのであるが、日本に人るという企ては成功しなかつたのである〔*Japsin l03 225v〕。

111*Japsin 163 139.50年前にも同じ事をドミニコ会士一名とアウグスチノ会士一名が試みたのである(*Japsin l9 174)。

112ミゲル·バス、1684年11月 21日マカオ、*Japsin 163 253。

113フランソワ·ノエル、1685年10月13日広東、*Japsin 163 304。

114イシドロ·ルッチ、1694年11月3日、*Japsin 82 388および392。

115アントニエ·トーマスから中国副管区のイエズス会士達への書簡、1701年12月17日北京、*Japsih 167 217.1692年に中国皇帝k'ang Hiはカトリック教の味方に立った勅令を布告したが、1711年まで朝鮮に隣にある都Shengyangに教会を建設する事を認めなかったのである。RDM著Originsの1692年1711年の年表参照。

1161707年5月14日ゴア、*Japsin l70 173。

117RDM著Originsの第38章THE EVANGELIZATION OF KOREA FROM INTERNATIONAL WATERS。

118マヌエル·ダレブウは、「post quadriennium」日本へ行くであろうとフランシスコ·レッツ総長に書き送っている。1732年12月15日マカオ、*Japsin 37 25。日本に人ったとの記述は無い。

119中国副管区によって許可されたのではない。〔*Japsin 181 94〕。

120ローマグレゴリオ教皇大学、* cod.292 570~607。Notizie delle Mssioni Asiatiche 596。

*著者であるファン·ルイス·デ·メディーァナは日本で27年間暮らし、 1981年からはローマのイエスズ会史学研究の会員である。

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