Centenário

ジョアン·ロドリゲスの語る日本の歴史

クラウデイア·オルグァ― リョ·カステロ,池上苓夫 訳

ジョアン·ロドリゲスは、1577年1日本に着いた時わずか一七歳であった。成人への成長する時期は、この日出ずる国の現実と、そして現実と思われるものとに適応する時期でもあった。人間的、知的形成はその大半が日本人、日本語、日本の文化と習慣に直接的なかたちで接触する過程で進んだのである。

ロドリゲスの勉強はイエズス会士の指導のもとでなされた2。それはアレサンドロ·ヴァリニァ、1の提示した方針、つまり宣教師は日本の現実に適応すべしとする方針が若いイエズス会士にたいしてすでに実施され始めていた頃のことであった、この巡察使は、第一回巡察旅行(一五七九一一五八二)の折に宣教師は日本語を学び日本語を流暢に話い、日本の習慣に同化すべきであると主張した。従っていずれの学院のカリキュウムにも日本文学の教育、日本の礼儀、作法の教育を入れることが必須となった。

おそらくロドリゲスは、日本に同化せるとする方針ともっとも見事に体現したケースであろう。ロドリゲスは日本語を十分にわがものとしていたい、日本にかんする深い知識が身につけていたため、この宣教区の上長たちの通訳として選はれることがしばしばであった3。通訳としての活動の故に、日本の有力者、たとえぱ秀吉と親しくなることができた。事実秀吉はロドリゲスを頻繁にその居館へ呼ぴ出し、午後タ方まで言葉を力わしたことがなん度もあった4

こうしてロドリゲスは三十年あまりにわたって日本の社会と接していたので、日本の習慣や政治の実態のみならず日本の歴史についても広範な知識を身につけることができた。

小論において論評しようとするのも、まさにこのロドリゲスの語っている日本の歴史である。

『日本教会史』

小論が基本的に目指すところは『日本教会史』5,の解説と論評である。『教会史』は極東におけるボルトガル人の活動の研究のためのもっとも重要な資料の一つであり、おそらくョーロッパと日本が初めて出会った十六世紀に西欧人が日本の社会を分析した代表的な著作である。

これより前にフロイスが宣教活動の歴史を語るにあたって日本の社会について論じており6、ヴァリニァーノもまた自分の提示した宣教方針が正しいものであることを説明するにあたって日本の社会について語っている7。ロドリゲスもまた日本の社会構造、日本人の習慣、価値観について語っているが、それはいたすら日本の文化と伝えようとする思いにもとづくものであった。

現在まで伝わっているのは三点から成る『教会史』である。第一は入門的性格のもので、とくに日本文化が扱われているが、われわれが知つているのは十八世紀の写本のみである、第二は胃険でフランスコ·ザビエル神父の活動を述べているもの(これが十六世紀の字体であるのか著者の自筆によるものかは不明である)。第三は十七世紀のテキストで、ペドロ·マルティンス司教による日本巡察のことを述べたものである8。この著作の革新的いや現代的でずらある記述が認められるのは第一部である。ここでの著者は圧倒的に社会学的手法で日本についての記述を進めている。そこには住居、衣服、容貌、礼儀、作法、技芸にかんする詳細かつ明晰な記述が見える。しかし著者は習慣について語るにさきだって、まずアジアと日本の地理について語り(一ー章)日本の歴史についてすこし触れるべきと考える9。つまり地理的、歴史てき位置づけである。

ロドリゲスは日本の歴史をその政治形態にもとづいて明確に三期にわけそれぞれの特徴を挙げ、三期それぞれの個性と連続性を明らかにしようと努める、一部は自分の眼で確かめたものによって。一部は日本の古い史書によって、そして一部は永年にわたって日本人と共に生きているうちに得ることのできた知識によってである。目指したのは「現実にあったことの真実の姿を伝えること」10である。

著者による日本の歴史の時代区分は三期に分かれる。第一期は日本の成立までさかのぽる。著者はこの第一期を特に重視する。これは、ロドリゲス以前のイエズス会神父たちのなかには「第二期のことしか書いていない者もいれば、第三期のことしか論じていない人もいる」11ためで、日本の発展の全体図を読者に教えていないためである。このTçuzzu,12(通事)の目的は、他のイエズス会士とちがい、三期それぞれについて語ることであった。

ロドリゲスが「教会史」の第十一章で述べているところによると、第一期は紀元前七世紀に初代の国王神武が登場した時から中国との交流の確立をへて西暦一三四○年まで続いた。第二期は―三四○年に始まり秀吉がTenca(天下)をとった―五八二年に終わり13、第三期は一五八二年に始まり、一六二○年もまだ第三期であったという14

第一期

ロドリゲスもまた、宮廷史で扱われていない先史時代は論じないで、国家としての日本の成立とされている君主の時代に出発点をおいている(比較年表参照)。

第一期の特徴は、この通事によれば、日本全域が一つの王権に服しているということ(「一人の首長にして古来の君主でもある人のもとで王国の統治が行なわれ、王国全域がおのれの国王に服すること」)と習慣と儀式が全域にわたって等しいことである。15社会的階層の上層部は明確にわかれている二つの集団が占めていた。その一つは貴族階級でこの階級が王国の統治にあたっていた。もう一つの集団は武士階級で、王国の総大将であるXogun(将軍)の指揮にしたがってこの国の防衛を担当していた。国王は、この国の行政区画である六十八の州16それぞれに三年ないしそれ以上の単位で統治官を派遣し、また国內諸地域にみいて不正、悪事を処罰、平定するために武官と兵を任命した、司法権は国王とそれぞれの州の統治官にあった。

第一期において社会移動が可能であったのは上層部のみであった。「にの時期にあっては農民や民衆は常に民衆であった」17。つまりそれぞれの働きによって「貫族の種々の位階と王家の役職に」18就くことができるのは貴族の子のみであった。

国王は王国全域から地代や「大量の」年貢をとりたて、統治官らは国王から土地や地代を贈与されていた。

中国や朝鮮から渡来した偶像崇拝の慣うしは国中に普及した、豪壮な寺院や僧院が建てられ、大学がいくつも設けら「なかには三千の僧院つまり主院をもちその首長と弟子が住んでいる大学もいくつかあった」。19

第一期は日本が平和と繁栄のうちにあった時代で、よき習慣が行なわれ豪壮な建造物が建てられ貴族も国王の威勢も盛んであった。これを物語るのは古い歴史書の內容や建築物の遺構のみである20

ロドリゲスが日本の歴史にみける第一期の特徴としてこうしたものを挙げる視点は、宮廷人の視点から強い影響をうけている。ロドリゲスによれば、二○○○年のあいだ日本の社会的、政治的組織は不変であって、一人の国王が日本全域と統治し、中央権力は強く、役人集団は有力な家柄出身の者から選び、各地域の行政はとりわけ税の徴収を目指すものであり、社会は高度に階層化したものである。

第一期の特徴としてあげられたものは、紀元前六六○年から西暦一三四○年に及ぶ二○○○年間の歴史に一貫して妥当するものではない。争点として新石器時代の末期から鎌倉時代までというこの長期にわたる時代には、さまざまな構造変化があり、このために日本の社会は変化を蒙しているのである。フランシーヌ·エラーユの時代区分から見れば、ロドリゲスの記述対象としている第一期と大変革期七世紀末から八世紀初頭)とがほぼ対応するにすぎない。

日本の国家としての成立は『教会史』の語るのとちがい、遠い紀元前七世紀のことではない、それよりずっと新しいのである。ロドリゲスは八世紀に編まれた日本最初の公的な歴史書に依ったにちがいない。これらの歴史書では、日本の歴史は紀元前六六○年に初代の天皇である神武天皇が即位した時に始まるとされている21。しかしながら、現在考えれているところでは、神武が初代の首長として大和地方に着き、その周辺に威勢を示したのは西暦三世紀中葉のことであったとされている22

日本の社会が徐々に構造化の方向へ進み頂点に首長をもつ一つの階層社会となるのは古墳時代(三世紀から四世紀末)のことであった、鳥越健三郎によれば、神武は天皇家の十人の首長のなかの最初の首長で、こうした変化を大きくうながした人であったという23

大和王国には、ロドリゲスの語る第一期と共通するものはなにもない。確かに中国から渡来した思想のなかには、中央集権国家という思想はあったし、朝鮮出兵を契機に日本の統治者のあいだに自分たちの権力を強固にしなければならないという考えかたは生まれた。しかし日本はまだ一人の天皇の権威のもとに統一国家を創りあげることのできる壮況ではまったくなかった。当時の日本コぺつもの氏族のもとに分裂しており、それぞれの氏族はいずれも自治的性格が強かった。祖霊が尊崇の対象であり24、この祖霊がそれぞれの氏族集団の內的結合を強化するのに有効に働き、また中央集権化の試みに抵抗をしめたのである。

大和朝廷の勢力圏が拡大するにしたがって、その領域全体に及ぶ行政組織を創りあげる必要が生じた。六世紀は、古い家系をもち首長制につながる有力な氏族(中臣、大友、物部)と蘚我氏――新興の一族で中央集権制の確立を目指す氏族——との闘争を特徴とする時代であった。蘚我氏は抵抗する諸氏族を倒し五九二年に女帝推古天皇を王位につけるこのに成功した。この頃から大和朝廷は成文法によって統治をすすめる国家へと徐々にかわっていった。そして日本の中国的性格国家への変貌が強力に進んだ。

続く二世紀は日本を中国的国家にしようとする試みが、日本全域を名実ともに統治し各地で氏族がもつ権威を無力なものにしようとする為政者の願いと共に進められた時代であった。

中国から導入した中央集権化の方策を日本で実行に移すうえで大きな役割を果たしたのは、推古天皇の皇位継承権をもち国政を担当していた聖徳太子(五七四一六二二)であった。そうした方策の一つに、外国から渡来した宗教すなわち仏教25を採用すること、それから唯一の中央権力を説く儒教をひろめることがあった。

七世紀の中頃蘚我氏は天皇家にたいする影響力を失った。このため新しい為政者たちは、文字通り根本的な変革を思いのままにすすめられるようになった。中大兄皇子(かつての聖徳太子とひとしく皇位継承者とされ国政を担当した)と、かつて学生として中国にいたことのある人びととが中国の社会、政治的組織に倣った組織をつくりあげようとした。

この大変革の施策のなかには、天皇の権威の復興(つまり天皇の名において権力を自分たちに集中させようとする人びとの権力の強化)26 公的役職者採用試験に基づく官僚組織の強化、日本を首都に脱層するいくつかの地域に分割すること、土地の国有化と、平等主義に基づく分与、それから税制改革があった。

こうして日本は中央(朝廷に直接服属する地域)から地方(それまで氏族に服していた地域)へと徐々に再組織化されていった。

これが完結するのは七世紀末から八世紀の最初の十年間のこのであり、さらに三つの改新が見られた。すなわち日本最初の法令集の正式な編纂(七○一年)、度量衡の統一、貨幣の鋳造である。七一年に朝廷は奈良におかれた。この都市は中央権力の本部の機能を果させるために特に設けられたものである。天皇家が実権を握ぎっていたのはわずか数十年のことで、その後は同族結婚によって有力な氏族からある程度の独立性を保持するのみとなった。

しかしながら、この図式は八世紀のうちに変化し始め新しい時代の到来を思わしめるようになった。藤原氏が朝廷にたいして大きな影響力を有するようになった。つまりこの氏族の荘園が現われ、その数が増大し、荘園內の紐帯がさまざまに張りめぐらされるようになったのである。

七七四年にはすでに朝廷の十七の高い官位のうち十は藤原氏の者が占めていた。この氏族が専ら努めたのは、一族のなかの女性を未来の天皇と結婚させ、ついでその夫を皇位から退かせ、藤原氏出身の皇后の幼い子を皇位につかせることであった。そして祖父が摂政の役を果した。この氏族権力が強固なものになると関白——成人した天皇の名で統治にあたること——の制度が確立し、八八一年からこの称号が用いられるようになった。

藤原氏のへゲモニーの黄金期である八九七年から一○八六年にかけて、この一族は、陰の権力であることと姻戚関係を保持することに専心し、天皇を操り高位の行政職をすべて独占していた。

天皇家と朝廷は、法令集による統治方式を採用し日本をいくつかの地域に分割し税制改革にともなう新しい土地制度を施行するなどして、ある程度その力を見せたが、この国の地勢と、それぞれの地域社会の構造とが、中国型国家制度と日本全域に及はすことの障害となった。

かつての土地所有者が。こんどはそれぞれの地域の統治者となっていた。この人たちは公式には土地所有権を失ってはいたが、まぎれもない所有者のごとき機能を果し、中央権力に従う役人と地域住民との橋渡し役をつとめていたのである。 国家がどれほど個人個人と直接接しようと望んでも、日本の社会は依然として家族的、地域的社会構造を保持していた。このため徐々にではあるが、再び地域主義的方向を目指す動きが生じてきた。八世紀末からの首都である京都から遠く離れた地では、それぞれの地の有力者の権威のもとに分化していったのである。

地方で生じていたことと見合うかたちで、首都においても個人的なつながりのほうが法令尊重の態度より重さをなすようになり、藤原氏の絶頂期はすでに中央集権的制度の衰微と法今による統治の崩壊を予告するものとなっていた。

十一世紀の末に、藤原氏による天皇家の操作というシステムは破綻をきたい、天皇はこの機会を利用してその権威を回復した。

一○八六年、後冷泉天皇が残したが、藤原氏にはその後を継がせる孫がいなかった。新しい天皇の後三条天皇は藤原氏の「方策」を真似て、皇位を自分の子白河天皇に譲った。こんどは名目上の天皇の父である退位した天皇が、その天皇にたいして祖父以上の影響力を行使するようになったのである。

退位した天皇による政治を始めたのは白河天皇で、この天皇は一○八六年に退位すると続く三人の天皇の後見人となったのである。

関白の制度はまだ廃されてはいなかったが、権力はまったくなかった(「人を呪わば穴二つ」)。

天皇による権力回復は一時的なものにすぎなかった。この政治体制は天皇位を狙う人びとのあいだの勢力争いと、地方の有力者と朝廷から派遣されている役人とのあいだの争いのために最終的には崩壊してしまったのである。

こうした歴史的文脈のなかで勃興してきた武士階級が、日本の政治組織を根本から変えることとなった。政治権力が戦闘になって争われるようになったのである。歴史上初めて平清盛が一一五九年に首都を制圧する。しかし清盛はまだ一人の廷臣として日本を統治しようとしか考えない。他の武士との紐帯と個人的な関係を強固なものとしそうした武士の助けを得て権力の維持を図るかわりに、天皇家と姻戚関係を結ぶという伝統的方式を用いる。天皇が清盛と排除しようとした時、源頼朝の率いる武士らが日本の中世への幕を開けた27、これ以後日本の統治は四世紀のあいだ武士によって行なわれることとなる。

第二期

ロドリゲスは、「読者への緒言」のなかで第二期は一二○○年頃に始まり信長で終わると述べている。この時代区分は日本の中世(一一八五一一五七三)にぴたりと合致する。(年表参照。)しかし『教会史』の第十一章では、第二期の始めをこれよりおくらせ、足利尊氏が将軍に任命された一三四○年としている。

一二○○年のほうがフランシーヌ·エラーユの提唱する時代区分に合うにしても、一三四○年は将軍職が足利家の手に移つた時期(一三三八年)、したがって中央権力の極度の弱体化の時期にちかい点では興味深いものがある28

ロドリゲスの主張によれば、この時はじめて足利尊氏をはじめその他の武将による事実上の王権奪取があり29。「国王と貴族階級に属する人びとは自分たちの得ていた収益と土地を失ったのである」30。中央権力がなくなったため、武力衝突が一般的となり、無政府状態が現出し、「日本全域が戦乱の場と化し、たがいに殺しあい、それぞれ思いのままに振舞うようになった31」のである。

天皇と廷臣らは「都に籠居し、それぞれの国を支配する者と将軍が、国王から授けられる位階にたいする返礼として贈られるものと除いては、生活の資とすべき収入はなにもなく貧窮の極みなあった32」。武士は権力も土地も収入もすべて奪取はしたが、国王を常に自分たちの当然の主君として認めていたことをロドリゲスは強調している。将軍のなかに天皇の称号を得ようとした者は一人もいなかったのである。

第二期は(王官や館、市街や収穫物の)破壊の時期であり、貧困と治安の保たれぬ時代であった。商取引は衰微し、かわって街道や海上では、強盗、追剥ぎ、海賊がはびこった。中央政府がなく法律も失なわれ、犯罪や謀叛が頻発し、処罰は恣意的なものであった。

フランシスコ·サビエルが一五四九年に日本へ着いた頃はまだ第二期であった。

『日本史』の著者ルイス·フロイスはその『日本史』のなかで、內戦について頻繁に触れ、こうした內戦を宣教師の活動の記述のための枠組としている。第一部第二章に、すでに争乱に関する記述が見える。それは薩摩の大名鳥津義久が 「領內に戦乱があった33」ため、ザビエルが鹿児島から京都へ行くための援助を一五四九年に断ったと述べている条である。

この著者は当時宣教師のいた地(九州·畿內)から內乱を観察して記述している。しかしこうした争乱は日本全域に及んでいた。つまり局地的な現象ではなかったのである。武士集団相互の関係は不安定なものとなり、同盟は一時的なもので、その時その時の利害関係によって左右されていた。

フロイスの「日本史』を読めば、このように権力が不安定なものとなっていた時代には、有力な武将の権威が武士団を統一させる要素として重要であったことがわかる34

ロドリゲスは第二期の始まりを一三四○年においているが、中央権力の危機は十二世紀中葉、つまり一一五六年の危機35、ついで鎌倉幕府36(一一八五一一三三三)の誕生から始まっている。この時武士は権力を握り、この結果、首都(つまり朝廷)の権威は徐々に衰退していったのである。

一四六七年以降——諸国間の戦闘期——內乱は恒常的なものとなり、かつての天皇の場合とひとしく将軍には実質的権力はほとんどなくなった。この時代の特質は、権力を行使できる中央政権の権威がなかったこと、大名家の、とりわけ十六世紀以降の変質である。大名は、かつて朝廷が日本全域に用いた方式に似た方式に従って、地方レベルで権力を持つようになった。したがって日本の政治的分裂の傾きがつよくなったのである。

しかし戦略的に日本の中央の位置を占めることのできた大名が、権力分散化の方向を逆転させ、支配地とつぎつぎと拡大してこの権威を認めさせて行く役割を担うことになる。そしてこの方向へはじめて歩み始めたのが、尾張の大名織田信長であった。

第三期

ロドリゲスが日本の歴史を三期にわけた時の第三期は、信長、秀吉、家康が日本の再統一化を進めた時期(安土桃山時代ーー比較年表参照)にあたる。

著者ロドリゲスは、第三期が真に始まるのは秀吉が「全国統一を完了した」時であるとしているが37、信長が中央集権化への端緒を開いたことは認めている。

この時期にあっては、武動、宗教、「天下殿」との血縁関係に援けられて社会移動が可能となった。法律、統治様式、習慣はこれまでと異なるものとなり、都市や宮殿や城塞があらたに設けられ、商業活動活発となり、海上交通も大きく進歩した。人びとが富んで豊かになったことは、衣服や訪問時の贈り物からもうかがわれた。平和は繁栄と豊かさをもたらしたのである。朝廷の人たちはあらたに土地と称号を得て諸国の首長となった。

第一期第二期を通じて、中国から「輪入された」偶像崇拝の慣わしは盛んであったが(仏僧たちは広大な土地と豪壮な寺院をもっていた)、第三期になるとキリスト教がイエズフ会宣教師にとって広められ始めた。

ロドリゲスはホルトガル人がこの日出ずる国へ着いた時のことには触れていない点でフロイスとは異なるが、この事実が日本の歴史の第二期から第三期への移行に影響を与えたことについてなにも述べていない点ではフロイスと共通する。しかし福音の普及は日本社会の分裂をもたらす新しい要因となったのである38。いっぽう火器の導入のほうはそれまでの戦術を変え中央集団化の動きを容易ならしめた39。織田信長はいずれのライバルよりも鉄砲の威力を有効に活かし、鉄砲使用という革命的な戦術によって、それまで久しいあいだ日本に見られた政治的、軍事的形態をくつがえし、日本の再統一への端緒を開くことができたのである。一五八二年に信長が没した時、日本は半分以上がその支配下にあったのだ。

信長はイエズス会宣教師を保護し仏僧には泊害を加えた40。信長は、私的権威を有するいくつかの有力な集団を根絶できぬがぎり、再統一は成功しないだろうと明確に意識していたのである。拡大な土地を支配する仏僧集団、そしてそこの個々の仏僧を打ち破ろうとしたのもこのためである。

執拗に自己の自治独立を守り為こうとする者たちとの相つぐ戦闘によって信長は全国統一と実現しようとしたのであをが、死ぬまで交えたこうした戦闘は、いずれも唯一の武将による権力拡大のための戦闘という性質をもっていた。

信長が没すると秀吉が指導者の地位を獲得し、一五八二年から一五九一年にかけて信長の支配下になかった地と平定した。日本を再統一し、その支配下におくと、秀吉はただちに行政的中央集権化の努力を始めた。人ロ調査と土地調査を命ずたのである。これは「日本ぜんたいの富の程度を知る手段であった。そしてまた武士と農民それぞれのための掟も設けた。これは両者を巧みに統制する方式であった41。エラーユの言葉を借りれば「秀吉は中央集権的な一種の封建国家を創ったのである。」42

秀吉を継いだ徳川家康は日本の統一を維持し、己の権威のもとにある一つの中央権力に日本を服せしめていた。そして一六○三年に第三次幕府を開いた。ロドリゲスはこの変革についてつぎのように述べている。「第三期は、大閣が没し內府がこれを継ぐに及んですでに変化がすこし認められる、內府はこの王国を善くし食と住を改善した」。43この通事はこうした出来事の只中にあったため、非常に大きな断絶には気づかなかったが、家康の施策はやがて長期にわたる将軍支配の時代を生むことになる。

断絶と連続

ロドリゲスは『日本教会史』第十一章の末尾ちかくで、自分に記述した三つの時期に認められる類似点と相違点を指摘している。ロドリゲスによれば、「第一期の政治形態は日本固有のほんらいの形態であり」、日本の全域が一人の国王の権威に服している。第二期は「暴政の時で第一期とは逆である」。つまり権力は武士に奪取された。第三期は第一期に似た面があり、ふたたぴ中央権力が回復し、この中央権力が日本全域を支配し、人びとは平和と繁栄のうちに暮らしている。しかし第二期に似た点もある。すなわち権力は一人の武将によって奪取されたと言っている。

ロドリゲス以外のイエズス会士で、內乱が起きていた頃の日本についての記録を残した人たちは、それ以前の時代がどのようであったかは知らなかった。したがってこの人たちは、混乱と無政府状態の日本が日本の真の姿であると考えていた。つまり日本はその成立期から戦乱が続き、法律もなければ政府もない国であると考えていたのである。そしてまた土地を所有している人たちはそれを合法的に所有しているのだと考え、将軍が日本の王であり、其の国王は聖職者であると思っていたのである44。日本の現実を知らなかった(または部分的にしか分析しなかった)結果として生まれた、日本は戦乱の絶えない国であるというイメージはイエズス会神父の書簡や、そうしたものを資料として用いた著作によって西欧にひろまってしまった45

ロドリゲスの意図は、国家としての日本の成立にまでさかのぽって日本の歴史を正しくたどることにあった。この著者の提示する時代区分は、日本ほんらいの特質が時の推移と共に衰微し失なわれたとする考え方と密接につながっている。第一期は日本「ほんらいの」「固有の」「真の」政治状態と考えられ、第二期第三期は成立期の状態から遠ざかっている時代であるとされている。こうした「分離」状態が生じたのは武士が「統治権を本来の所有者から46」奪取し、中央権力が消滅した時である。日本が再統一されるにおよんで(第三期)中央集権制はよみがえったが、権カは国王の手にもどらなかった。

注意すべきは、著者ロドリゲスが第一期の最大の特徴とするもの(日本全域が唯一の首長の権威に服していること)が、大変革期にしか妥当しないことである。日本が国家として成立した頃の天皇は日本全域を支配していなかったのであって、その役割は氏族が果すことになった。七世紀の末から八世紀の初頭にかけて天皇の最高権威が回復した時でさえ、目指されたのは天皇の権威の強化ではなく朝廷の権威の強化であった。

忘れてならぬのは、ロドリゲスは朝廷の人びとの見かたから強い影響を受けていることである。古代にあっては、朝廷の権威は天皇その人による(戦略的または強勢されだ)黙認によって合法的なものとなったのであり、この国を支配したのは「王座の背後の権力」具体的には廷臣だったのである。

日本を中央集権国家にしようとする考えかたは、七世紀頃、中国文明の主要な部分(文字、思想、宗教、行政組織)を導入する動きのなかで生まれた。奈良時代(七一○年だら十世紀中葉)に実現した政治的中央集権化は、日本の中国化の努力の結果であって、この日出ずる国の「本来の」「固有の」ものではなかった。しかしこれははるか昔のことであったため、廷臣たちの眼には日本本来のものに見えたのである。

ロドリゲスは『教会史』の第十一章で、他の宣教師の書いたもののなかに圧倒的に欠けている部分を補おうと考え、日本の歴史の初期の姿を述べたのであるが、ロドリゲスの分析の弱点が露呈するのもこの第一期の記述である。われわれの考えでは、ロドリゲスは日本の政治組織の基本的特徴、つまり天皇の名をもつ者が政治的権力を有したことはほとんどなかったことに気づかなかったのである。天皇の役割は儀式と芸術の分野へと大きく後退したのである。

いっぽう第二期第三期の記述からは、著者が內乱の時期と再統一化の時期について深い知識をもっていたことがわかる。この知識は十六世紀中葉から日本に住んでいたイエズス会の神父の記録と、それから信長、秀吉、家康の統治していた頃の日本の現実との直接的な接触とから得られたものであった。

ロドリゲスの語る日本の歴史は非常に短くまた国式的でもある。しかし日本の成立からロドリゲスがこの国を去る時までの、国家としての日本の変遷をたどっているという長所はある。

ロドリゲスの努めたのは、自分の設けた日本の歴史の時代区分三つをたがいに比較することと、それぞれの時期に関して存在する誤った認識を正すことであった。ロドリゲスが願ったのは、日出ずる国は常に武士の支配する国であったというわけではないことをョーロッパの人びとに知ってもらうことであつた。つまり軍事的衝突と無政府状態は日本の歴史において一時的な現象であって、この国に一貫して認められる特徴というわけでないことを知ってもらうことであった。武士より前の時代には、朝廷の人ぴとがこの国を統治していたのである。したがって、これからは日本を戦争の国と考えるようなことがあってはならないとしたのである。

日本の古代史について記録を残した最初のョーロッパ人はこの通事である。そしてまたイエズス会宣教師の書き残したもののなかで、日本列島が混乱と武将のかなたから過去をもつ国として登場したのもこれが初めてである。

1ロドリゲスは『日本教会史』のなかで、自分は「福者(フランシスコ·ザビエル)神父が日本を去り中国へ向かった時から二十六年後に日本へ着いた」と語っている。ザビエルが日本を去ったのは、一五六一年十一月のことであったから、ロドリゲスが着いたのは一五七七年であることに疑問の余地はない。Cf. Michael Cooper,Rodrigues the Interpreter: An Early Jesuit in Japan and China,New York,Westherhill,1974,P.38

2ロドリゲスは商人の助手あるいは見習として日本へ来たというのがクーパーの仮説であるが、宣教師らの保護下で日本へ来たのかもしれないと述べている(cf. Cooper,op. cit., P.37)。一五八○年にこの通事は臼杵で修練院生となる。そして翌年府內で人文学の勉強を始める。また府內で哲学と神学の勉強も始める(それぞれ一五八三年と一五八五年)。cf. Ibidem,P.66.

3ロドリゲスはヴァリニァーノがインド副王の使節の資格で秀吉に謁見した時その通訳をつとめた。その後も例えば徳川家との外交交渋にあたった。Cf. Cooper,op. cit. PP.73-75,191-192.

4Cf. Cooper,op. cit. PP.82-83.

5João Rodrigues, História da lgreja do Japão,Tanscrição do códice 49-lV-53 (fólios 1-181)da Biblioteca do Palácio da Ajuda,preparada por João do Amaral Abranches Pinto,Notícias de Macau,1954.

6Luis Frois SJ,Historia de Japam,(edição crítica de Jose Wicki,SJ),5 vols. ,Lisboa,七六ー一九八四。

7Alexandre Valignano SJ,Sumario de las cosas de Japon,(1583)(Luis Alvares Taladriz校訂),Tóquio,US,1954.

8Josef Franz Schütte,"A História inédita dos Bispos da lgreja do Japão do Pe. João Rodrigues Tçuzzu SJ" in Congresso lnternacionalde Hislória dos Descobrimentos. Actas.5 vols, vol,V,la parte,PP. 297-328.

9「この王国の習慣についてさきだって(....)まず述べておくべきは(....)日本には政治形態から見て三つの時期があったことである(....)われわれはここでこれら三つの時期について記すこととする。」João Rodrigues,op. cil. ,cap. ll,PP.177-178.

10Rodriques,op. cit. ,cap.11,P.178.

11Ibidem,P.178.

12Tçuzzuの語源は日本語のtsuji(通事)で、通訳の意。cf. Cooper,op. cit. ,P.69.

13しかしながらロドリゲスは、「読者への緒言」のなかで、第一期は紀元前六六○年から西暦一二○○年とし、第二期は一二○○年から一五八二年としている。

14「読者への緒言」に述べられているところと第十一章の記述とは一致しいる。

15Cf. Rodrigues,op. cit., cap. ll,P.178.

16平安時代の行政令(八二四年)では、日本は六十八国に分れている。Cf. Francine Hérail,Histoire du Japon. Des origins a la fin de Méiji Matérieux pour étude de la langue et de Ia civilization japonaise,Paris,PubIications Orientalistes de France,1986,PP.82-83.

17Rodrigues,op. cit. ,cap. ll,P.179.

18Ibidem,P.179.

19Ibidem,P.180.

20ロドリゲスによれば、「マルコ·ポーロは」自著のなかで「日本の王宮に触れている」という。Cf. Ibidem,P.180.

21日本では、七世紀の初頭に六○年周期の暦法が用いられるようになった。古い時代の年代決定もこのころのことであったようである。事実、六○一年という年は、大きな変更をもたらす組合や、つまり新しい時代が始まることを意味する組合せと考えられている「金属と鶏の年」であった。いっぽう暦法の専門家たちは、六十年周期で二周期目、つまり一二六○年が一種の「大なる年」であると考えていた。七世紀にこの大な年を計算の基準に用いて一二六○年さかのぼり、紀元前六六○年を「日本年代記」の言う神武天皇登場の年として正式に日本の歴史の出発点と定めたようである。 cf. Hérail,op. cit. ,P.21.

22Cf. lbidem,P.48.

23Kenzaburô Torigoe,"Between the Gods and the Emperors; a new reconstruction of the Early Histoy of Japan"in Memoirs 0f the Research Department of the Toyo Bunko,Tokyo,no.33,1975,PP,23-83.

24神道(日本人にきわめて固有な宗教心)は一種のアニミズムで、自然や祖霊に超自然的な力があるとする。日出ずる国のこの独特の宗教の故に日本人は周囲の自然と連統的存在となり、家族的紐帯も強固なものとなった。この点については、例えばEdmond Rochedieu,OXintoismo,Lisbon,1982を見られたい。

25仏教は氏神信仰とちがい、普遍主義的宗教である。この点については、例えぱHenri Arvon,Le Bouddhisme,Paris,PUF,1979をみられたい。

26この通事の主張するのとちがい、日本では中央集権化はほとんど例外なく、天皇ではなく朝廷の権力の回復というかたちをとった。

27西欧の場合とひとしく、日本の中世の特徴も內戦、権力の弱体化、個人的紐帯の強化、武士の優位であった。cf. Michel Vié, Histoire du Japon,Paris,1983,P.47.

28ロドリゲスが第十一章で言う日本の歴史の第二期は、足利家が将軍職に就くようになってからの中世(すなわち中央権力が極度に弱体化してからの中世)と合致する。

29…主の一一三○年頃最初の內戦が始まり(....)、これが引き金となってこれ以後叛乱がいくつもあった。しかし、この時は後の場合とちがって、国王からその統治支配権を奪取することはなかった。Rodrigues,op. cit,cap.11,PP.180-181.

30Ibidem,P.181.

31Ibidem,P.181.

32lbidem,P.181.

33Luis Frois SJ,op. cit. ,vol. IP.24.

34これについては論文João Paulo Oliveira e Costa,"A unificação política do Império Nipónico segundo a História do Japão de Luís Fróis,"P.4に従った。

35この危機は宮廷で始まったが、政治的権力をめぐる戦で終わった。

36「幕府」は文字通りには「幕屋の政府」の意で、将軍による行政府のおかれた総司令部のことである。転じて、一一八五年から一八六八年にいたるまでの日本の統治のための制度そのものと軍事組織も言う。

37Rodrigues,op. cil. ,cap. ll,P.184.

38João Paulo Oliveira e Costa,op. cil. ,PP.8-10.

39これについてはつぎを参考にされたい。João Paulo Oliveira e Costa,"A introdução das armas de Fogo no Japão peIos portugueses á luz de História do Japão de Luís Fróis",Institulo Oriental,Lisbon,1992.

40Cf. João Paulo Costs,"A unificação do Império Nipónico...",P.5.

41Hérail,op. cit. ,P.284.

42Ibidem,P.285.

43Rodrigues,op. cil. ,cap. ll,P.190.

44lbidem,P.184.

45lbidem,P.184.

46lbidem,P.188.

リスボン新大学文学部歴史学卒。

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até a p.