澳門キリスト教主における日本人に関する覚書

神父マヌエル·テイシェイラ

日本キリスト教数百年の歴史の中で、知られることの最も少ない、しかも最も注意をひく面の一つは、おそらく、その首尾一貫して展開するキリスト教傳道路線上の主要港として、傳道師および日本人聖職者のための教養、精神的活動の基点として、さらに最終的には、日本人キリスト教徒亡命中のホーム、多くの日本人殉教者の遺骨安置所として、澳門が果たした役割である。日本とポルトガル人との関係は、確固たる希望の持てた時期と、絶望的な時期である、と結論づけられる多少のエピソードめいた話がある。しかし、澳門において日本人の物語とつながりのあるものや、その最後の記念建築を聖パウロ教会に見いだすことができる。聖パウロ教会は、初期にあってイエズス会士の学問の基地であり、後には熟練した日本人職人が教会に装飾を施した。この正面はポルトガルの詩人とプロスタントの聖歌作者両人に霊感を与えたものとして今に残存している。澳門にあり、日本人キリスト教徒の記念的建築物であるこの遺跡をみつめる香港総督ジョン·ボウイングはいたく心動かされてうたった。「キリストの輝かしき苦悩のうちに、時による破壊を越えてそびえ立つ。」

日本人観光客へのおすすめ

(a)かつて東印度会社本社で、賈梅士(カモンエス)公園に近い博物院は、1657年7月2日、火あぶりの刑に処された長崎の殉教者の死を描いた絵を所蔵している。それに、近年、長崎港の海底で見つかった砲弾がある。この砲弾は1610年、アンドレウ·ペソア船長が、日本人に生きて捕らわれまい、と船荷もろとも自沈させたノサ·セニョラ·ダ·グラサ号のものであった。

(b)大聖堂、ここには日本人殉教者の遺骨が聖餐式(聖体拜領)を行なう礼拜堂の上の聖物遺物箱に納められている。

(c)聖ジョセフ教会、ここには聖フランシスコ·ザビエルの遺骨がまつられる。隣接の神学校には、日本人画家の手に成る聖ミカエルの古い画像がある。

聖パウロ教会のほか、一般によく知られてている場所以外に、これらは是非とも訪ねられるべき場所である。

聖パウ口教会と神学校

聖パウロ·イエズス教会はおそらく1565年創建され、中国、日本への傳道活動に絶えざる役割を演じて来た。1601年の火災のあと新しい教会が建立され、その教会の装飾は渓門の日本人の手に成ったことは、我々の研究で明らかになった。再建された教会自体は1603年クリスマス·イヴに再開されたが、3万テールを費した有名な教会正面は1640年までかかってもまだ完成しなかった。この建設に協力し、設計にあたったカルロ·スピノラ修道士は1622年日本で殉教した。この教会の守護聖人は被昇天の聖母である。主門口の上にMater Dei(聖母)、礎石の上にはMagni Matri(至高の聖母へ)と刻銘されている。ポルトガル人の、聖母マリアへの帰依の証しを示す。神父ヴィデイラ·ビレスは次のように述べる。

「澳門という地名が起こった異教の寺院の本山は女神「」(母)を祀った寺院で、もともと福建から来て広東沿岸を占領した漁民たちhok-lous(福佬)が崇拜した神である、といわれる。一方、苗族が幾世紀に亘って中国南部を統治していた。しかしながら一部の北方人「逍」(Sai-On西戌の純粋な中国人)にとって代られた。苗族の女家長制が主権と握り、その影響はなお四川、貴州、雲南の邊境地方に残っている。カトリック傳道士たちは「Sheng Mou(聖母)と呼んで、この偶像崇拜をカトリック教の聖母崇拜に取り替えた。従って、澳門のイエズス教会は中国人に印象づけるよう「聖母の教会」と呼ばれた。しかし、この教会の守護聖人は被昇天の聖母であって、被昇天は聖母をあがめるために設けられた最初の典礼祝日の一つである。」

1637年澳門を訪れたピーター·マンディは聖母教会についてこう記した。

「コリッジ(聖ポールと呼ばれた)に通じるこの教会の屋根は、私の記憶にあるかぎり今まで見たもののうち、すこぶり出来ばえが良く、最も堂々たる迫持ちの一つで、中国人の手に成り、木彫で、金ぱくを張り、朱、浅青といった極めて美しい彩色が施してある。正方形に分けられ、そのおのおのの接合部分に幾重にも大きなバラの花や葉がたがいちがいに重なり合って、下向きの屋根から立っている旗竿の珠飾りまで続いている。またそこには聖パウロ教会に通じる新しい、広い装飾付きの入口があり、階段が幾つもある。最後の2階段は天国の段と呼ばれる。」

1640年、澳門はその繁栄の最盛期にあり、この新装の教会は同市の富裕さを反映した、とカルジン修道士は言う。

「澳門には堂々たる建物が立ち並び、商業で富み、昼夜を分かたず車馬が往来する。また、気高く尊敬すべき市民が住む。澳門は全東洋を通じて令名を馳せている。金、銀、絹、真珠その他宝石類及び中国、日本、トンキン、コーチ·シナ、カンボジア、マカッサルおよびソロールからあらゆる種類の薬品、香辛料や香料の宝庫である。それに、何よりも東洋における全キリスト教徒の頂点に立っているのである。」

聖パウロ教会の廃虚は、現在では、かの榮光ある過去の遺物と化し、澳門が繁栄した往時、重要な役割を十分に果たした壮麗な教会は、今では亡霊となっている。

この教会と聖パウロ学院の三部門は1601年の火災で焼失した。「海事·拓殖年鑑」の記録には、この火災は夕刻正6時に起きたが火の回りが極めて速く、8時15分過ぎには壮大な学院は全く灰燼に帰した、とある。ゲレイロ修道士は次のように述べる。

「澳門市の全市民は、慈愛と同情の念に動かされ、総督臨席のもとに集会をもち、澳門市民が日本に所有していた財産の1.5%を教会に寄付することを満場一致で決定した。また市民たちは、行方不明になった船を我らが主はお戻し下さる、と一縷の望みをかけていたが、この難破船はついに戻ることはなかった。しかし、この市民たちの思い違いはよい結果を生むことになった。つまり、主は、もうけの多い積荷を満載した船を澳門の市民たちに戻されたからである。こうした寄付金は総額3,130パルダウ·レアルという少なからぬ額に上った。」

この金アイエズス会士たちは教会と学院の焼失部分を再建した。

前述のように、教会は福者力ルロ·スピノラが設計した。この人物は、1546年にイタリアのジェノヴァに生まれ、19歳でイエズス会に入会した、1596年リスボンを去って澳門に来、新しい聖パウロ教会の建立設計に従事した。この設計はたぶん、ローマのイエズス会の本部であるゼス教会を意識したものであろう。見事な入口の階段はアンジェロ様式である。スピノラは1623年9月10日、52名の同信者と共に長崎で火あぶりの刑に処された。そのうちの10名はイエズス会士であった。

語りつたえによれば、イエズス会士たちはこの教会再建に亡命日本人キリスト教徒を使った、といわれる。これは、むしろ、作業のほかに施与という近代的方法をとったものである。この言い傳えは、正面に刻んである中国文字が正確でない、という事実から確かめられている。ピューゴ·ブラント氏がこの教会のことを書いた、アジュダ図書館にある報告に、

「その文字はジョニキニという名の、日本から来た良質の木に書かれていて、美しい彫刻、つまり、巧みに彫った輪つなぎの浮彫りの木细工で、壁に固定されている。描かれた装飾の間は巻き飾り彫りで、それに金色、青色のバラ花飾りである。」

この教会の內部はジョン·ニコラウ(ジオヴァンニ·ニコラウ)修道士の日本人弟子が装飾を施した。ニコラウ修道士の弟子のうち、最も著名なのは1579年、中国人を父、日本人を母として生まれたジヤコブ·ニワ労務修道士である。ニワ労務修道士は1601年にイエズス会に入り、聖ポール教会のために被昇天の聖母と聖女ウルスラを描いた。この美術学校については後述する。

1600年ごろの聖パウロ教会について言えば、通常30名くらいのイエズス会士が住んでいた。が、日本へ赴く前には、一時、70名もいた。フェルナン·ゲレイロ修道士はこう書いた。

「その後、この学院と神学校は日本、中国のそれと同様、偉大なる企てと傳道事業という二つの大きな目標をかかげた建物であった。ここでは古典文学、芸術、神学を学び、これらの優れた分野で活躍する者の学問と精神を琢磨した。」

聖パウロ学院の、とりわけ貴重な宝物はその図書館で、これが極東における西洋人学徒によって累積された最良のものであることは言を俟たない。

聖パウロ神学校は、中国、日本、トンキン、コーチ·シナへの大部分の傳道者の送り出しの中心であった。また、日本の殉教者たちが訓練された学校でもあった。ローマ教皇ゲレゴリオ十三世のもとへ使節として赴いた日本の貴族たちは、この神学校にしばし滞在した。1590年、傳道と旅行のためサンデ修道士がDe Missione Legatorum(使節の使命について)を刊行した。澳門で印刷された第2番目の書物である。これに関連して書きとめるべきは心、この日本人使節団が1590年6月23日、長崎に帰着したとき、ヴァリニヤノ修道士が随行した。この修道士は澳門で最初に印刷された書物を1冊たずさえてやって来、この書物から55冊が引き続き刊行きれた。

聖パウ口教会の 日本人美術家たち

ジョヴァンニ·ニコラウ(ジォヴァンニ·コラ)修道士は日本美術学校の創始者で多くの門弟を養成した。

ジオヴァンニ修道士は1560年、イタリアのサレルノの近くに生まれた。1577年12月イエズス会に入る。1581年にリスボンからゴアに渡った。1582年4月26日、ゴアからマラッカ、次いで他の7名のイエズス会士と共に8月7日澳門に到った。この7名の中にフランシスコ·パジオ修道士と中国布教の創始者で著名なマテオ·リッチがいた。(リッチは中国に入る前1年間、聖パウロ学院で中国語を学んだ。)

澳門でジオヴァンニ修道士は救世主の画像をかいた。パジオ修道士が1583年2月18日、修行に注文したものである。

1583年7月14日、ジオヴァンニ修道士は長崎に向け出帆し同月25日着く。1601年、有馬に美術学校を開く。1603年から13年までの間に長崎に他の美術学校を設立した。1614年澳門に帰り、1626年3月16日に永眠するまで絵をかくことを教えることを続けた。

ジオアヴァンニ修道士の日本人門弟で澳門に来て仕事にたずさわったのは次の人々である。

1. ジヤコブ·ニワ(前出) 1603年、イエズス会士ジヤコブ·ニワはマテオ·リッチ修道士に随行して北京に赴き、リッチ修道士の言によれば、その作品は全中国を驚かせた。以前には中国の絵画に匹敵するものは何処にもない、と確信していた中国人たちは、ニワの絵に比肩すべきものは何もない、と告白した、とある。(注·フェルナン·ゲレイロ「年報」、93ぺージ)

2. マンシオ·タイチク 彼は1607年に日本でイエズス会に入る。1614年澳門に亡命、1615年1月20日同地に死去。聖パウロ教会の聖ミカエルの祭壇近くに葬られた。

3. タデウ 1590年イエズス会に入会して、澳門に来、1620年まで同地に居住。

4. ピーター·ジョン イエズス会入会。澳門に来たり、1620年間でこの地に住む。澳門でジオヴァンニ·ニコラ修道士のもとで神の母、すなむち聖母教会の装飾ならびに中国傳道のため他の絵画をかいて働いていた日本人美術家たちの名は、これだけしか知られていない。 侵略を企てたポルドガル人広東での流言。

聖パウロ教会の再建と、1606年、日本人の広東侵略との関連はにわかに明らかにならないかも知れないが、澳門における日本人の歴史の中で、この奇妙な事件の背後にはC. R. ボクサーおよびモンタルト·デ·ジェズスが収集した事実が存在する。(注·C. R. Boxer: The Great Ship from Amacon(Lisbon 1959) p.70,Montalto de Jesus: Historic Macao (Macao,1926)p.69)

[ボクサーはこの事件を次のように設定した]1606年、ドン·ディエゴ·デ·ヴァスコンセロスは日本への羽振りのよい旅行を行なった。この旅行は単なる旅行とは異なる意味で注目に値するもので、広東に対して現実ばなれした侵略的な威壓感をありありと誇示していた。ドン·ディエゴとイエズス会士たちけ澳門のポルトガル人およびオランダ人と結托して中国を侵略すべく、日本人のキリスト教徒傭兵を召集した!そこで広東人は敵慨心を抱き、ドン·ディエゴとイエズス会士たちを非難した。このただならぬ脅しによる広東人の恐怖はやっとのことで収まった。後に一中国人イエズス会士は広東の牢獄で瀕死の拷問を受けた。

[モンタルト·デ·ジェズスの解釈は次の如くである。]極めて疑い深く、そして排他的で人さわがせな人たちに担がれようとしていた中国人たちは、今度は教会をとりでと間違えさせられようとしていた。つまりそれは、聖パウロ教会の建設にともない、ふだんと異なる状況から生じた誤解のようである。圍いのマットが一せいにとり拂われ、鐘がたのしげに鳴り、大衆が大ぜい集まって来て、美しい建物が姿を現わす日まで、そのどっしりとした建物が。人目にふれないように配慮されていたのである。——巨大なとりでが秘密裡に構築されつつある、という中国人たちの憶測を、いかにももつともらしくしたのは、そこに日本人労働者たちが働いている、という事実であった。おまけに。ヴェルデ島でイエズス会士が礼拝堂を建立したのを、中国人はそれをとりでと誤解していた。そして、イエズス会の修道院院長が宗教論争に自分の言い分を通した結果として、修道院院長は中国に反乱を起し、中国を征服しょうとしている、というふうに中国人は悪意をもって受け取った。保護用の壁の構造は疑惑を生んだ。ポルトガル人たちは、中国に対して攻撃的なたくらみを抱き、またポルトガル人たちはとりで(中国人は教会をそう呼んだ)を幾つか造ったあと、今度、1606年には海岸の防備を固めている、とのうわさが流れた。イエズス会士のカタネオが皇帝に選ばれた、とささやかれるほどであった。

ある中国人学者は、このラザルス·カタネオ修道士を王位を奪い取る者として公然非難した。この学者の書いたものによると、カタネオ修道士は中国全土を熟知しており、澳門から北京までの主要都市を隈なく訪問している。陸路、海路ともに明るく、中国の言語、風俗習慣に通じており、おびただしい信奉者を擁している。これら信奉者らは、中国を侵略し、清帝国を無理やり奴隷状態にするためにポルトガルから艦隊を待機するのみであった、と言う。この中国人学者の書いたものは全国津々浦々にまで拡まり、国中の子供までがカナネオの名を知るようになり、恐怖の念を抱くに到った。副王は北京に急使を派し、切迫する大いなる危険を国王に警告した。

中国人たちは演門から広東へ避難した。澳門の商業は停頓し、議会はこの流言の荒唐さを示すため副王に陳情書を送った。澳門に帰った中国人もいたし、議会が送った陳情書によって真相を確証した中国人もあった。そこですべての紛争をひき起した「海賊」は自分の行為を正当化するためにフランシスコ·マルティンス修道士はスパイであり、王位奪取を計る者の名をかたるカタネオ修道士の副官である、という容疑から、新参の聖職者の背教者らによって非難され殺されたのである。モンタルト·デ·ジェエズスは続けて、

「そこで副王は澳門攻圍のため、軍隊をひきいて進発するよう州の軍司令官に命令を下した。この慎重な中国高官は、職権をもって事前に実情を確かめるのが得策と考えた。部下の一士官は澳門に着くと聖パウロ教会の神学校に赴き、清帝国の王位を切望する恐るべきko-ti-nou(カタネオ)に会いたいと思った。気立てのいい司祭は、建物內を殊る隈なく士官に見せた。軍需品や兵器のぎっしりつまった兵器庫などでないことを納得させるためである。図書室の書物を指してカタネオは言った。私が王国を征服しょうと企てていた武器はこの書物類です、と。中国の高官はにっこりと笑い、もはや恐怖を抱いているようではなかった。次に神学生たちが静かに学習している大広間に高官を案內して、カタネオは言った。この学生たちは私の指揮の下で戦い、私が王位にのぼるのを助ける軍隊です。中国の高官は今はもう安堵しきって、次に教会、修道院その他の建物を訪ねた。広東の当局はこの高官の報告で迷いからさめ、徐々に武装を解除し、平和は回復し、商売は平常に戻ったのであった。」

この幻想的な流言による唯一の被害者は潔白なフランシスコ·マルティンス労務修道士で、中国の初の殉教者となった。

日本人の使節団

イエズス会の巡察師アレシヤンドロ·ヴァリニヤノ修道師は1582年、日本使節団をローマとリスボンに送る計画を立てた。九州のキリシタン大名大村純忠、大友宗麟、有馬晴信は、各自の代表者を送ることに同意した。伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、それに原マルチノ、いずれも13歳と14歳。ディオゴ·デ·メスキタ修道士が響導者として同行し、ヴァリニャノ修道士同行するつもりであった。

一行は、1582年2月20日、イナシオ·デ·リマ号で長崎を出帆し、3月9日澳門に到着した。一行はドン·レオナルド·デ·サ司教、ドン·ジョン·デ·アルメイダ総督、イエズス会士らに歓迎され、聖パウロ教会学院に宿泊、9か月間澳門に滞在した。

1582年12月31日、一行はサンチアゴ号でてラッカに向け出港した。ヴァリニャノ、メスキタ、オリヴィエイロ·トスカネリヨ修道士たち、それにイエズス会の日本人労務修道士らが同行。

数か月後、? 一行はゴアに入港した。ヴァリニャノ修道士は? その地のイエズス会管区長に任命されており、残らぬぱならなかった。ヌノ·ロドリゲス修道士が代って日本人使節団一行とリスボンまで同行した。1584年8月10日リスボン着。

ポルトガル、スペインの多くの都市を訪問したのち一行はローマに赴き、1585年5月23日ローマ教皇グレゴリオ十三世に公式謁見した。

1586年4月13日、リスボンから帰航の途につき、1588年7月28日澳門に到着。再び聖パウロ教会に宿泊し、1590年6月23日、ヴァリニャノ修道士にともなわれて長崎に向け澳門を後にした。

日本人殉教者たち

1742年に澳門に着いたモンタニヤ修道士は澳門管轄区の歴史を書き、その中で聖パウロ教会に安置された全ての遺骨のリストを挙げている。8個の小さなケースと11個の大きなケース、計19体の日本の殉教者の遺骨が収めてある。

1806年1月29日、これらのケースは澳門の司教ドン·フランシスコ·デ·ノサ·セニョラ·ダ·ルス·ジャシンの命によって開けられ、骨を確認した。日本の殉教者の骨は下記のように認定された。

l

l.Joana TaisaifaiXi

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 2.Pedro Quiain     

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3.Pedro Tintaro      

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 4.Tome Voregi      

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5.João Nexi        

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 6.Mar Faiaxida     

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7.João Tatun       

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 8.Leão Taiaxida  

9.Jacob Taiaxida

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l0.João Tafiore

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1l. Simão Tajeda

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l2.Tome Vada Tagbaje

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13.Leao Quita        

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l4.Miguel Fingemon

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15.Marta Voda        

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16.Jacob Voda       

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17.Tome Maithaiti

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18.Inez Tingano     

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19.Leão Tapdami

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20.Joaquim Vatamabi

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21.Justo Veda        

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22.Joana Tajeda     

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23.Miguel Vatanabi

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24.Paulo Tagedomi

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25.Matias Vatanaba

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26.Luís Minami

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lang=EN-US style='font-size:12.0pt;font-family:宋体'>

27.Madalena Paiaxida

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28.João Quango

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lang=EN-US style='font-size:12.0pt;font-family:宋体'>

29.Domingos Jorge

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lang=EN-US style='font-size:12.0pt;font-family:宋体'>

30.Frad Garcia

style='font-family:宋体;mso-ascii-font-family:"Times New Roman";mso-hansi-font-family:

"Times New Roman"'>神父  

31.Diogo Quissai

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lang=EN-US style='font-size:12.0pt;font-family:宋体'>

32.Maria Madalena

style='font-family:宋体;mso-ascii-font-family:"Times New Roman";mso-hansi-font-family:

"Times New Roman"'>日本

                     

ではりつけ刑

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33.Miguel Mituachi

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34.Joana Canquazaqui

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35.Adriao Zacataxi

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36.Diogo Cangûgami

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37.Tome Tamaguihi

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38.Leonardo Magataxi

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39.Estêvão Mitarai

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40.Leão Tagedomi

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41.Tome Miteami      

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42.Pedro Tituro     

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43.João Naco       

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44.Justo Voda       

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45.Tome Vitanabi

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46.João Minami

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47.Damião Tamaguiki

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48.Bento Tabaja     

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49.Paulo Tagedomi

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50.Madalena Minormi

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51.Inacio Tai        

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52.Simeão Velho

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53.Vicente問答教授者

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54.Francisco Toiame

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55.Jorão Bugo      

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56.Gaspar Nexi      

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60

60.Domingos

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61.Tomás

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62.Pedro

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63.Caio

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64.João

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65.Benedicto

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66.Martinha

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67.Agostinha

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68.Ináco Filongotis

lang=EN-US style='font-size:12.0pt;font-family:宋体'>

69.Martinho

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70.Pedro Dang

style='font-size:12.0pt;font-family:宋体'>

71.Vicente

style='font-size:12.0pt;font-family:宋体'>

72.Aleixo

 

lang=EN-US style='font-size:12.0pt;font-family:宋体'>

73.André ーチ

lang=EN-US>·シナ

の初の殉教者

style='mso-tab-count:1'>                                               

こうした殉教者の遺骨はすべて聖パウロ教会內の聖フランシスコ·ザビエル礼拜堂に保管されていた。

聖パウロ教会が1835年に焼けたとき、これらの遺骨は聖アントニオ教会に移された。今日これらの遺骨は澳門大聖堂の聖餐(聖体拜領)礼拜堂の上の小さな礼拜堂に保管されていて、今でも見ることが出来る。

日本人キリスト教徒亡命書について正鵠を得た消息は次のとおり。1614年1月27日、家康は令を下して、宣教師ら全員を日本から退去させ、日本人カトリック教徒はすべておのおのの祖先傳来の宗教に復帰すべきを命じた。

11月7、8日、5隻の船で宣教師らは大勢日本を去り、うち2隻はマニラ、3隻は澳門とシアムに向かった。

1592年、マニラには300人の日本人キリスト教徒、1606年には1500人、そして1628年には3000人がいた。日本人キリスト教徒らは、フィリッピンに次の2都市を築いた。1592年にディオラ、1615年にサン·ミゲル。

1636年、ポルトガル人と結婚した日本婦人たちとその子らが澳門に追放された。総人数287人。1668年3月8日、澳門生まれの日本人ジョン·パチェコは聖イグナチウス神学校に学び、1694年神父となり、1725年4月4日死去し、聖パウロ教会に葬られた。聖パウロ教会に葬られた日本人25名の名前は記録にある。

聖フランシスコ·ザビエルの遺骨

聖フランシスコ·ザビエルは1552年、サンシアン島で逝き、その腐敗しない肉体はマラッカ、ついでゴアに移され、ここでボン·ゼズス大聖堂におさめられた。日本で荒れ狂うカトリツク教徒に対する迫害のある今、聖フランシスコ·ザビエルの遺骨を日本へ送りたい旨を、イエズス会宣教師たちはローマの総神父ムチオ·ヴィテルレスシに書簡をもって求めた。総神父はこの求めに應じ、ゴアの管区長ジャコメ·デ·メデイロス修道士に命じ聖フランシスコ·ザビエルの片腕を切断させた。このメデイロス修道士は、1619年4月27日に切断を敢行した。「我らは肘から肩に伸びる右腕の骨を抜き取り、日本へ持って行くべく、ガブリエル·デ·マトス修道士に渡した。この上膊骨は長さ13センチである。」

当時ゴアに、1618年11月4日、ポルトガルから到着した日本のドン·ディオブ·コレイア·ヴァレンテ司教がいた。ザビエルの遺骨は同司教に托され、1619年5月20日澳門に向けて出港し、7月18日入港した。航海中、旅客たちはこの遺骨のおかげで難船から救われた。旅客たちはこれに感謝して骨にあてがう銀製の腕金をこしらえた。

司教は迫害で日本へ行けなかったので、日本の教会管区の代理人がブリエル·デ·マトス修道士が澳門で遺骨を受けとった。同じ年の1619年である。

1620年1月15日、日本の巡察師ジェロニモ·ロドリゲス修道士はムシオ·ヴィテルレスシ修道士にあてて貴重な遺骨に対して感謝の書簡を送った。

日本では依然として迫害が行われているので、遺骨の安全を保ち難く、1635年より前に次のように書いている。

「以前には澳門でよく台風と呼ばれる大暴風があって、大木を根こそぎにし、猛烈な勢いで人々を地上から吹きとばした。しかし、榮光に満ちた聖フランシスコ·ザビエルの腕をこの地に迎えてからというもの、台風の起きることは極めて稀れとなった。」

遺骨は200年に亘って聖パウロ教会に大切に保管された。教会が1835年火災に会ったとき、聖アントニオ教会、ついで大聖堂に移された。遺骨は現在、聖ジョセフ教会の聖ジョセフの祭壇上に安置されている。高さ72センチの純銀製の貴重な聖骨箱に納めてある。それには次の碑銘が見える。「この遺骨箱はアントニオ·ペレイラ、その息子たち、嫁たちの指示によってロンドンで造られ、1865年9月1日、澳門の大聖堂に献ぜられたものである。」

1952年12月、聖フランシスコ·ザビエルの遺骨は、一時マラッカに移され、聖フランシスコ·ザビエル殁後400年記念式典には数千の信者が参集した。1965年、遺骨はニュー·ヨークの大司教フランンスコ·スペルマン枢機郷の要請で短期間アメリカに在った。ニュー·ジャーシーのニュワークでは敬慕の数10万のアメリカ人が参集した。

日本の神学校

聖イグナチウス神学校は一日本人司祭と、澳門で殉教したイエズス会士とが建てた。その日本人司祭パウロ·ドス·サントスは、約1万2000テールを献金し、イエズス会士殉教者聖フランシスコ·パシェコは1623年、神学校を設立したのである。

ガルシャ·ロペス·パシェコとマリア·ボルジエス·デ·メスキタの息子パシェコ修道士はポルトガルのポンテ·ド·リマで1565年に生まれた。1585年12月30日、コインプラでイエズス会に入った。1592年インドに渡り、そこから澳門、日本へ行った。聖パウロ学院長となるため(1604年~1609年)、日本から召還された。1612年に日本に戻り、2年後、澳門に追放去れた。が、1615年日本に戻り、1622年、ローマ教皇によって司教総監、イエズス会修道会長に任ぜられた。1625年逮捕され、次の年、焚刑に処せられた。共に処刑された他の2人のイエズス会神父はジョン·パプチスタ·ゾラとバルタザル·デトルレスで、朝鮮人イエズス会士1人、日本人平信徒9人、日本人イエズス会士4人―ペドロ·ロンセィ、ガスパル·サダマツ、パウロ·シンタキおよびジョアン·キンサコ。これら17人の殉教者にはすべて1867年7月7日ローマ教皇ピウス大世によって列福が行なわれた。

聖イグナリウス神学校の日本人建設者パウロ·ドス·サントス修道士はC. R. ボクサーが記述したように、次に述べる日本とポルトガルとの事件に巻き込まれた。

1634年8月1日、旗艦サント·アントニオ号はロポ·サルメント·デ·力ルヴァリヨ指揮のもと、長崎に向け澳門を出港した。同艦は台風に遭遇したが、同月末長崎に着くことができた。

「小型快速ガリー船が孤影悄然として長崎に入港したとき、ポルトガル人の困惑はひと通りではなかった。サント·アントニオ号に乗り組んでいた商人たちの一人ジェロニモ·ルイス·デ·ゴウヴェイアは軽率にもパウロ·ドス·サントスなる澳門の日本人司祭から長崎にいる他の日本人にあてた代金支払い、請求の書状を持参していた。この書状は、港の役人に見つけられ、ゴウヴェイアは不運にも逮捕、入牢を命ぜられた。果ては翌年10月焚刑に処せられてしまった。長崎の当局は、澳門の議会に、パウロ·ドス·サントスをインドあるいは、何処か、つまり日本との文通のかなわぬ地に派遣の処置をとるよう書簡を送った。この長崎当局の要請に対し、対日貿易に関心のあったポルトガル人たちは、こぞってこの要請を強く支持した。そして、パウロ·ドス·サントスの熱心な抗議にもかかわらず、インド·? シナの布教地域に送り出された。パウロ·ドス·サントスは数か月のうちに澳門復帰した。1635年12月、澳門の判事マヌエル·ラモスは、副王に書状を送って、この日本人司祭(パウロ·ドス·サントス)をコーチ·シナヘ赴任せしめるよう、至上命令を下されんことを求めている。その後。長崎当局はカトリック教で用いるロザリオを携帯したり、分けに十字を切ったりすることを禁じた。この長崎当局の命に従う者を澳門司教管区の臨時総神父は激しく非難した。その上、日本に居住するポルトガル人の子の多くが日本人で、背教者の婦人と公然同棲しており、誰ひとり洗礼を受けていない、と非難した。」(C. R. Boxer,The Great Ship from Amacon,p.137)

[ボクサーは脚注に付記して] この事件がもとで、日本人のほとんどがいらだったのはパウロ·ドス·サントスが澳門で12名の日本人青年キリスト教徒を扶養するため募金しているためであった。これら青年たちは幕府の布告を一切無視し、何年かして日本へ隠密の布教者として派遣されることになっていたからである。」

ボクサーは1634年10月5日付の澳門市会議員―ロボ·サルメント·デ·カルヴァリョ、マヌエル·デ·セケイラ、ドン·ゴンサロ·ダ·シルヴァ、アントニオ·デ·オリヴェイラ·アラニャ、ジョルジェ·バステイアン、グレゴリオ·デ·モラエス·サルメント、マヌエル·サニャド·デ·ソウザ、フランシスコ·ルイス·レアル、ジェロニモ·リベイロ、マヌエル·カルデイラ·ロボ、ロレンソ·ゴンサルヴェス—から日本当局に送られた書簡を翻訳している。

水野河內守の時代に、これらの地方を秘密裡に歩き回った聖職者たちに、書状、書き付けまたは生活必需品を托したり、持って行ったりすることを禁じる立札があった。その貼紙には、奉行、代官その他の人々が布告に従う旨を誓った署名が記されていた。同年クリストヴォン·パウロ神父から数通の書簡がとどき、同神父が出した書簡のことで日本にいるポルトガル人神父たちは痛く悲歎にくれた。この点について特に申し出でをしたり、何らやましいことはないのに、これを仕方なく認めねばならなかったことに対する弁明をすることはなかった。

前記パウロ神父の書簡は、日本文字で記されており、澳門で一日本人からジエロニモ·ルイスに手渡され、長崎のナカヤ·マタエモンおよぴカガヤ·ソチビョウエのもどへとどけるよう依頼されていた。このジェロニモ·ルイスは、自分に依頼したあの日本人、当人が、自分でその書簡を作成したものと考えた。それで、もしその書簡がパウロ神父からのものと分かっていたら、長崎へ携行することを引き受けはしなかったに違いない。こうした書翰の携行を長崎市は禁じていたからである。もし引き受けたとしても、それを海中に投じたに相違ない。ジェロニモ·ルイスが何も知らなかったという事実は前記の書翰を例の日本人が書いたものと考えたり、他のポルトガル語の書状と共に前記の書簡を長崎奉行に差し出したりしたことから明らかにうかがえる。我らはこう解釈するのであるが、この解釈は、さぱきには十分であるまい、と思われるので、これ以上の異議をとなえるつもりはない…

パウロ·クリストヴオン·ドス·サントス神父について言えぱ、この神父は神父のようにではなく、明らかに商人のように振舞っている。我ら澳門の者はこの神父を商売本位の神父と見ている。しかしながらこの人物が神父である以上、悪しざまに言うことは許されない。この人物は、このたびの大きな海難と禁制の書簡事件に連座したのであるからインドヘ追放されるのが宜しいであろう。しかしこれは閣下が定められるものと我らは考えられる。)(C. R. Boxer,pp.325-26)

パウロ·クリストヴオン·ドス·サントス修道士は、聖イグナチウス神学校を維持し続けた。ここで日本人神学生たちは、日本へ宣教師として派遣されるために学習していた。

ファン·マルティ·クリメント修道士は1672年マニラから澳門に来たスペイン人フランシスコ修道士で、この神学校について、ここで日本人、コーチシナ人青年たちが聖職者となるため訓練されていた、と言っている。(Senica Framciscana,Vol.? VIII,T. 11,Relacion of Fr. Climext)。

イエズス会士たちは、1762年、澳門から追放された。1775年8月5日、澳門の司教ドン·アレシヤンドレ·ペドロザ·ギマランエスは、ポルトガル国王に書簡を送り、日本は閉鎖されたので、パウロ·ドス·サントス修道士の遺産を聖ポール学院から、青年たちが中国布教のため訓練されていた聖ジョセフ神学校へ譲渡するよう国王の裁可を求めた。女王メリ一一世からドン·アレシヤンドレ。ゴウヴェイア司教への書簡によって、1783年、裁可された。こうして、この日本人神父の金は、今日なお、澳門の聖ジョセフ神学院での聖職者養成に役立っているのである。

要約

澳門キリスト教における日本人についての党書

澳門は日本でのキリスト教傳道に重要な役割を果たした。ポルトガル人聖職者のための主要な港として、日本人神父育成の基地、またさらに後には、亡命日本人キリスト教徒の避難場所として役立った。

当時の澳門で意義ある主要な記念物は聖パウロ教会で、ここにはイェズス会の神学校があった。そして今なお多数の日本人殉教者たちの遺骨を保管している。この教会は恐らく1565年に建立されたもので、中国、日本のキリスト教傳道に少なからざる反響を及はした。

1601年、火災で荒廃したが。直ちに再建され、1603年には公開された。ただ有名な教会正面(ファサード)完成されたのは、ようやく1640年のことであったが、この正面の彫刻は、1622年の殉教後亡くなった日本人修道士カルロス·スピノラの手に成るものである。再建のための資金は一部、澳門在住の日本人たちに寄った。教会內部の装飾には、イタリア人イエズス会士ジオヴァンニ·ニコラ修道士の門弟の日本人美術家たちが多く参加した。

この覚書には、さらに澳門、日本、中国における当時の政治、経済、社会のかかわり合いについての極めて貴重な記述があり、澳門という土地と環境の中で、日本人たちが果たした重要な役割を論証している。

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