Centenário

大友宗麟の日向にかけたキリスト教都市建設の夢

アルカディオ·シュヴァデ,岡崎真穂 訳

日本史においては大友宗麟の名で知られる豊後のフランシスコ(1530-1587)は、日本の南西部の領主であった。彼は、ポルトガル人に初めて出会ったときから常に味方につき、協力的であった。宗麟は自らの人生を振り返り、日本人修道士ダミアンに次のように語っている。宗麟が16歳のときに、

「府內に近い港に一隻のシナのジヤンクが入って来たが、船員の(中に)6,7名のポルトガルの商人がまじっていた。その主領はジョルジェ·デ·ファリアという富める人であった。シナ人の異教徒であったジヤンクの水先案內人は予の父に、もし労せずに富もうと欲するなら、あのポルトガル人たちを殺して、彼らの財産を奪えぱよいと勧告した。父は利欲に目がくらみ、シナ人たちの企みを実行するつもりであった。予はそのことを知ったので国主に会い、(殿)の保護を求めて遠くからはるばる領內の港へ商いにやって来た異国人たちを何の理由も罪もないのに、ただ(己が)利欲のための殺害するようなことがこの世にあってよいものか。彼らが到来したことは領国にとって誉であり、(当地の)港を信用すればこそ来(航)したのであって、国主にとっては有利な出来事であって、いかなることがあろうとも、(予は)そのような行為に同意することはできぬ、予は彼らを助けるためには死ぬ覚悟をしているくらいだ、と鋭く反撥接した。その結果、父は彼らに対して企てていた、そのような悪事を実行するのを断念した」1

初めてポルガル人が豊後に来てから数年後、義鎮は1550年に一挨で殺された父親の領土を相続していた。生涯を通じて、いかに多くの攻撃や非難、反駁を受けてもそれに耐え、初めてヨーロッパ人と出会ったときと同じように、彼らの側に立つ態度を崩さなかった。

1578年になると、ついにキリスト教徒に改宗する決心を固めた宗麟であるが、実行に移すためには妻2の強い反対を乗り越えねばならなかった。妻は、神道の神主である豊後の有力大名の娘であり、キリスト教とその信者に強く反駁していた。1576から、すでに宗麟は九州の9つの国のうち、5つを含む自分の領土を少しずつ、跡取りの義統(1558-1605)に譲りはじめていた。宗麟は臼杵の丹生島にある城に隠居し、これを槻に30年連れ添い、3人の息子と5人の娘をもうけた妻と離別した。フロイスは、神道に帰依したこの妻のキリスト教に対する深い憎しみが離別の主な理由であるとしている。宗麟は、次男3の妻の母を新しく妻として迎え、彼女共にキリスト教に改宗した。新しい妻とその娘と共に、宗麟は一人の日本人修道士によって教えを受けた。

その数週間後、宗麟の妻とその娘はついに洗礼を受け、それぞれジュリアとコインタと名付けられた。洗礼の際に、カブラルは宗麟がカトリック協会によって請われた規律を忠実に遵守していることに同意すると、宗麟と洗礼をうけたぱかりの妻との結婚の儀に司祭を務めた。この婚姻は日本のキリスト教史の中で初めていわゆる「聖パウロの特典」4が適応された例として知られている。

それからの数ヵ月間、宗麟は毎日曜、キリスト教義を聞き、それまで親しくしていた禅宗の僧坊との関係を一切絶った。

日向にキ リスト教徒の都市を建設する計画の発端

宗麟がキリスト教に造詣を深めていくにつれて、ョーロッパの庶民が従う規律についても、より知識が深まっていった。キリスト教について学べば学ぶほど、大友の領地內にキリスト教理に導かれた町を造りたいという願いが、宗麟の中で高まっていったのである。豊後のイエズス会の布教長であったルイス·フロイスは、その著書『日本史」に、大友宗麟を次のように描写している。

「日本において我ら(イエズス会員)に最初に好意を示し始めたのは、実にこの国主であり、27年このかた、司祭や修道士たちは彼の領內に住みついている。彼は司祭たちの求めに応じ、旅行に必要なすべての糧食を快く与え、その領內で我らに便宜をはかるのみならず、まだ異教徒の身でありながら、司祭や修道士たちがデウスの教えを弘めに行きたいと思っていた都(ミャコ)、その他の(国の)国主、ならびに異教徒の領主や友人たちに書状を送って、(キリシタンの)布教事業に好意を示されたいと依頼し、さらにその願いを有効ならしめようと、書状とともに若干の贈物を添えて司祭たちを送りだしたほどであった。またポルトガル人に対するように彼らに親しく語りかけ、貧しい者に対しては、多額の銀、その他の施し物をもって彼らを援助した。(略)また彼は、きわめて好奇心が強く、けだしこの国主ほどョーロッパやインドの諸国、ならびに教会に関してもろもろの事情を聞き質した者は日本にはいないであろう[と思われる]。」5

大友宗麟がヨーロッパの文明に触れている間に、宗麟の宿敵であり九州南部の大名である島津義久(1533-1611)は、その軍をもって南方に豊後と国境を接している日向を攻略した。敵方に領地を奪われた日向の大名伊藤義祐(1513-1585)は、ついには大友の領內に家族を連れて逃げ込まざるをえなくなった。そこで、豊後の若い大名、大友宗麟は日向を敵から奪還せんと決意を固めたのである。

それから数ヵ月間、四方の兵を従えた豊後勢は敵に占領された大方の地域を奪い返した。義統と宗麟側についた、あるキリスト教徒の兵は日向の北の土持にある仏教や神道の寺社や僧院を破壊しはじめた。日向の北方地区奪回について知らされた宗麟は、ヨーロッパの国政構造について知識を持っていたこともあり、かの地に前代未聞の計画を実現させようと決心したのである。

キリスト教徒の 都市設立の計画

ルイス·フロイスは、著書『日本史』に大友宗麟の計画について、次のように記した。

「土持の領地とその土地柄に関する報告は、国主を大いに喜はせた。彼はその年、あらためてそこに居住しようと決心し、息子に譲渡した他の諸国がより安泰であることを願い、(自らは)妻と(土持)で隠居することにした。そこで彼は(カブラル)師に(次のように)述べた。『予は日向に赴くことに決心した。ついては同居するため豊後から300名だけ家臣を伴うが、彼らはすべてキリシタンでなくてはならない。そしてそこに新たに築かれる都市(シタ"ーテ")は、従来の日本のものとは異なった新しい法律と制度によって統治されねばならず。日向の土地の者が予と予の家臣たちと馴染むためには、(彼らは)皆キリシタンになり、兄弟的な愛と一致(いのち)に生きねばならない。それがため、出発にあたっては、一司祭を同伴したい。(さらに)予が住む城を築く前に、まず教会を造り、(イエズス)会の数名がそこに住むことができるだけの封祿を与えるつもりである。その暁には予自身洗礼を受け、キリシタンとなった上は、デウスの教えに反することなきよう生きる覚悟である』と」。6

このフロイスの記述によると、大友宗麟は土持に新しい規律によって統治される都市を建設する計画だったようである。その都市では住人が皆、キリスト教によって結はれ、司教の教えのもとに生活するのである。宗麟は、個人的にそこで洗礼を受け、他の者が彼にならうようにさせるつもりであった。日本のイエズス会の布教長であるフランシスコ·カブラルは、自らが宗麟に付いて土持に向かい、新しい都市に建てられる教会が完成するまではそこに留まるつもりであると述べた。

計画実行のための準備

1578年7月、カプラル帥が九州西部の肥前に向かうために豊後を発とうとしていた際に、日本人修道士ジョアン·デ·トルレスを通じて、宗麟から次のような伝言を受け取った。 「(....)すでに必要なだけデウスの教えを聞いたことなので、伴天連(カブラル)殿に、日向に来られた際には受洗したいと伝えたのであるが、(令は)にれ以上三ケ月も四ヵ月も延期すべきではない、と彼に告げたいと思う。予は年老いており、明日の生命もはかり難い。(よって)伴天連殿は下(シモ)りへの旅についておられるが、そこでの用務をなるべく早く方づけて、令後一ヵ月(中)には(豊後に)帰られるよう願いたい。すなわち予は、伴天連(カプラル)殿に、ある特別の尊敬の念を抱いているので、ある方の手から(親しく)受洗したいと願っている。それまで(予は)予に課せられている祈りを暗記するように努める(略)」7

カプラルが豊後を留守にしていた間、宗麟はキリスト教義を熱心に学びつづけた。宗麟の受洗の望みはたいへん強くなり、カブラルが帰るや、彼の手によって洗礼を受けたいと思ったのである。この願いに応じて、カブラルは臼杵の聖堂で1578年8月28日、宗麟と彼に仕える6人洗礼を授けた。その際、宗麟に最初にデウスについて話したフランシスコ·ザビエルにちなんで、宗麟が自ら選んでいたフランシスコの名を授かった。ここから、宗麟は「豊後の国主フランシスコ」としてヨーロッパの歴史に現れるようになったのである。宗麟自身も、この時から、私的な文書にはFRCOという印鑑をもって。署名するようになった。

大友宗麟がキリスト教に改宗したという知らせで、豊後の多くの民がキリスト教に帰依するようになった。その9月から、当時の領主であった大友義統も、妻とともに毎週キリスト教の教えを受け始め、洗礼の準備をすすめるようになった。義統は、この新しい宗教についての知識を深めるはど、様々な疑問や問いにぶつかるようになった。しかし、こうした疑問等は、宗麟や他の大名たちがすでに感じ、解決していったものであった。義統が宣教師に主に質したのは、宗麟が計画中のキリスト教徒の都市に関することであった。義統のこの問いは、ここで少々触れるべきであろう。

義統は、受洗の前に、それまで領国のキリスト教徒ではない家臣の気に障らぬようにと、仏院などに与えていた封様を徐々に制限していくつもりである旨をまずカブラルに伝えた。カプラルがこれに対して回答を与えると、義統はふたたび次のように司祭に伝えた。

「(先に幾つかの覚書によって)尊師の意向を伺わせたのは、予が領国や所領を失う恐れがあったからではない。なぜなら、デウス、霊魂、救済、栄光、来世の懲罰などが存在することが判った後は、それら(領国など)いっさいと、(自らの)生命を失うことがあろうとも予にはとるに足りぬであろう。もしも尊師におかれて、(予が)突如あらゆるものと絶ち、寺社を一つ残らず破壊し、仏層たちを服従させ、あらゆゐ偶像を焼却し、領內のすべての異教徒的な儀式と習慣を廃止させることが良いと思し召されるならぱ、たとえそれが予の家臣たちに小なからぬ墳きとなり、動揺を与え、予の生命を脅かすことになろうとも、予はそれをなすであろう。また尊師におかれて、もし既述のように、人々と除々にその方向に仕向けて行く(よう)熟慮と分別をもってするほうがよいと思し召されるならば、そのようにするであろう」8

これに対し、カブラルは分別をもって行動するよう説き、受洗を翌年に延期するよう説得した。こうして、代々大友家に伝わる領土の中心地においては、政治的にも、宗教的にも、社会的にも伝統面での改革については、さしあたって延期するよう勧めたのである。一方で、元領主の宗麟は、近隣の伊藤家から受け継いだ領土に、日本の伝統的なものとは全く異なる都市を造る準備を着々と進めていたのである。

計画実への第一步

1578年10月4日、聖フランシスコの祝日に、宗麟は夫人のジュリアと共に、大友家に仕えていた身分の高い者を従え、小艦隊には幾門かの大砲を携えて出発した。乘船の際には、赤い十字架を描き、金の縁飾りを施した白いダマスク織りの四角い旗を掲げていた。カプラルは、ジョアン·デ·トルレス、アンドレ·ドウリアとルイス·デ·アルメイダの三人の修道士とともに、他の船で出発した。ルイス·デ·アルメイダは、こうしたキリスト教徒の新しい居住地を造った経験が豊かであった。そのため、宗麟に請われた、薩摩にいたところをカプラルが急きょ呼び寄せたのである。

宗麟とその一行を乗せた小艦隊は、3日ほどの旅で土持に到着した。他のほとんどの家臣は、陸路でやった来た。フロイスは、『日本史』の中に、宗麟がいかに喜々としてかの計画に着手したかを描いている。

「国主は、ほとんどつねに病身であったから、必要なだけの健康を保ってかのちに元気で到着したことを深く喜んだ。彼は、既述のように日向の国に、一つの堅固で、ローマに(まで)その名を馳せるほどのキリシタン宗団を形成する決意でいた。そのため(彼は)力を尽くしてその完成を期し、たとえョーロッパの法と習慣を採用した政治がしかれるとしても、現地の習慣がそれに合致できるものにしたい(と意図していた)。そこで到着すると、(彼は)従軍の身でありながら、ただちにこの問題と真剣に取り組んだ。彼はその地の最良の場所をその目的のために選んで、これを司祭と修道士たちが宿泊する司祭館と教会は、一時凌ぎのものであった[なぜなら去る戦のため、すべては破壊され躁躏されていたが、ただちに(布教の)仕事に着手できるように(配慮した)。こうして大いなる熱意をこって、さっそく建築事業が開始され、国主は、貴人たちもこの仕事を手伝い、材料を集めるように指示した。(国主)は、教会から程遠くないところに己が住居を定め、かねてそこに自らの住居を作ることを固く決意していたものらしく、大規模な建築を始めた」9

上述のような庇護だけでなく、20人ぱかりもいたイエズス会の会員の扶養のために二つの仏院の地代がカブラルに与えられた。カプラルと他の修道士たちは、他に重要な用務がないかぎり建築作業を手伝い、土地の準備に協力した。大友宗麟は、戦や建築のことで多忙であったのに、ほぽ毎日ミサに与かりに来て、キリスト教徒のあり方の手本となった。

それと同時に、その数ヵ月前の戦で被害を受けなかった日向の仏院や寺社の破壊が進められていた。そうした仏院などに住んでいた僧たちは、収入もかつての名誉もなくそこで過ごすか、他の土地に逃げだすしかなかった。宗麟は、日本人修道士のジョアン·デ·トルレスにこの事務を負わせた。フロイスは、この修道士の仕事ぶりを次のように語る。

「(....)修道士が出ていくところ、人は皆、あたかも国主に対するように服従し、多くの贈物や品物を持参したが、修道士はそれらを受け取りはしなかった。寺院を破壊するのに(さらに多くの)人手を要する場合には、求めた人数だけ(の人たち)が(ただちに)調達された。(修道士)は臼杵で受洗した一人のその地の(元)仏僧を傍に置いていて、この者が立派な,寺院や偶像がある場所を発見する役を務めていたので、(彼は)他の人々からよく思われてはいなかった。過ぐる夏、嫡子は降伏した敵の多くの城を占領させるために一人のキリシタンの隊長(カビ。タン)を派遣し、彼が始めた戦いで多くの寺院が焼却破壊されてしまっていたので、このたぴの(寺院の取り壊し)は、その後(再建されたものを対象になされたのである)」10

土持の地域で建物の再建とキリスト教の布教が進まれる一方、豊後の軍勢は次々と城を占拠しながら南方へと下っていき、やがて日向の要衝である高城へと着いた。豊後による高城への最初の攻撃は失敗に終わった。敵方の抵抗があまりに猛烈だったため、豊後車內では、戦略の取り方について意見の不一致が生じてきた。最終的には城を包囲することによって陥落させる作戦を取ることになった。

計画の不意の終焉

高城に包囲された3千人は、大名島津義久の弟、島津家久の指揮下にいた。義久は、高城の窮地を知って、出勤を命じ、また、? 弟を救うために直ちに5万人あまりの援軍を送り込んだ。1578年12月2日、高城と耳川との間で大友軍対島津軍の激戦が交わされた。ここで豊後勢は決定的に敗北し、これを機に九州における大友家の支配力が傾きはじめたのである。生き残った豊後の兵は前後の見境なく、慌てふためいて自分の国へと逃げていった。合戦の二日後、大友宗麟とイエズヌ会員は始めて敗北の報せを受けた。敵方の急襲を恐れた宗麟と家臣たちは土持から引き上げる準備を進めた。その翌朝宗麟は、その財宝の大部分と、非常に優れた大砲を残したまま慌ただしく土持を後にした。カプラルと3人のイエズス会の宗道士も宗麟の出発を知り、必要最小限のものをかき集めると宗麟一行になるべく早く追いつくように急きょ徒歩で旅路についた。宗麟の庇護もなく、彼らは豊後勢のキリスト教徒ではない兵士たちに襲われる危機に陥っていた。豊後の兵士たちは、この敗北は神父たちの影響を受けて、宗麟がキリスト教に改宗したことに神や仏が懲罰を下したためだと考えていたのである。

逃走して二日目の朝、司祭たちは、フロイスが次に語るような場に立ち会った。

「前夜過したところから遠くないある小川のところに来ると、国主(宗麟)は家臣一同の前で跪き、我らの主(なるデウス)に、このような苦悩と労苦(を授け給うたこと)を感謝しつつ祈りを捧げた。そしてフランシスコ·カブラル師を呼びにやり、招いて少しばかりの米を食べさせた。こんどの土持からの脱出はあまりにも慌しかったから、国主が(あえて) このような態度をとったのは、すでに悪魔が入り込んでいた、かの気違い兵士たちに、自分が(令なお)キリシタンであり、心の中は、かの過ぎ去つた幾多の不幸によってなんら変っていないことえお示すためあった。(事実) この苦悩する国主の(信仰)心は、火に試されることによって、金(オーロ)のようにますます深まり鍛えられていった」11

宗麟の揺るぎなれ信仰心に心を動かされた一行は、厳しい旅を続け、二日目の夜には豊後の領內にたどり着いた。宣教師たちがそれぞれ府內(大分)や臼杵の自分たちの住まいに帰っていくなかで、大友宗麟は臼杵より3レグア12西方の海辺の津久見という村落に宿をとり、そこの仏院を仮の住まいとした。降誕祭の日まで残すところ数週間という時、フロイスは宗麟よりその日を祝いに来てほしいと頼まれた。ポルトガルの神父として、宗麟とその妻がたいへんな熱意をもって告白し、降誕祭のための3つのミサを聞くのを実際に見ることは、良い機会であった。

この時の様子を、フロイスは自ら『日本史』に記した。

「(すべての)ミサが済み、一連の連祷を終えて後、国主はしぱらくの間、祭壇の前で顔を地面につけてひれ伏していました。そしてその後、両手を合わせ、跪いたままで私に(こう)申しされました。

『伴天連様、予は令こそ、日向においてデウス様に約束した三つの誓いをお打ち打ち明け申したい。尊師、それを伴天連フランシスコ·カブラル様に伝え下され。(なおまた)予がこの誓いに忠実であるよう祈っていただきたい。

第一に、予はデウス様が御寵愛と御扶助を授け給う限り、たとえ全世界(の人)が信仰を棄てたとしても、予はデウス様の御恩寵のもとに、生命を奪われようともカトリックの信仰から離れまじきことをデウス様にお約束申し上げた。

第二に、予は全力を尽し、ただにデウス様の御掟を守るのみならず、(イエズス)会の伴天連様方から予に与えられるあらゆる勧告や注意まで守ることを決意する。

第三に、予は死に至るまで、婚姻(の掟)の破戒者となることとはなく、なんらかの肉の罪によって己が魂を汚すこともいたさぬであろう』と。

そしてさらに、『至聖なる秘蹟を拝領して令ほど大いなる喜びと慰めを感じたことは、全生涯を通じてなかったことだ』と述べて話し終えられました。そして彼はただちに、我らの主なるデウスに対して行ったこれらの約束事を、携えていた祈祷書の中に自筆で記入し始めました」13

宗麟はその後も深い信仰を保ちつづけた。それから後の数年間で、多くの豊後の重臣が反キリスト教の敵意に圧されて大友家に反旗を翻した際にも宗麟の信仰は揺るがなかった。一揆や暴動が深刻化し、宗麟は嫡子義統の側近から再三説得されたすえ、その権威と政治的経験をもって領地に平和を取り戻すべく、三年ほど臼杵に移った。1583年に宗麟が津久見に再び戻る前に義統はその地を父の領土として譲渡した。この時、宗麟は日向であきらめざるを得なかった計画を、規模は小さいながらも津久見で実行しようと試みたのである。津久見にあった伝統的な偶像をすべて廃却すると、破壊から無傷で残っていた僧院をイエズス会の修道士たちの住まいとした提供した。一人の修道士と神父フランシスコ·ラグーナの助けを得て、津久見の地にはしっかりとしたキリスト教徒の共同社会が造られた。宗麟は1587年7月28日から29日にかけての深夜に逝去したが、その死まで深い信仰を失うことはなかった。

1580年から1581年にかけて巡察師としてアレシヤンドロ·ヴァリニヤーノは、来日した際に幾度も宗麟と会い、彼の人柄について次のように記した。

「国主フランシスコは常にたいへんすばらしいキリスト教徒であり、すべての日本の教会に貢献した。彼は存命のときと同様に、深い信仰を持ちつづけながら世を去った」。

1ルイス·フロイス著、松田毅一、川崎桃太訳『日本史』第7巻146頁(昭和53年 中央公論社)

2大宮司奈田鑑基の娘。この正妻のキリスト教に対する憎しみの深さに、イエズス会員は彼女にイザベルのあだ名をつけた。イザべは、イスラエル王アシャーブの妃で、異教徒を崇拝し、預言者エリアスを追放した悪名高い人物である。(フロイス、同上88頁)

3大友親家。彼は1575年に受洗し、これより数年前から宗麟と書簡を交わしていたポルトガル国王セバステイアン(1554-1579)にちなんでセバスティアンと名付けられた。

4聖パウロよりコリント人への第一の手紙17章12節から17節によれば、受洗した信者はキリスト? 教徒ではない伴侶が信者の宗礼を著しく妨害する際にはこの伴侶と離婚ができひされている。

5フロイス、前掲書120頁

6フロイス、同上135頁

7フロイス、同上142頁

8フロイス、同上159頁

9フロイス、同上168頁

10フロイス、同上172頁

11フロイス、同上240頁

12ポルトガルの古い尺度法。1レグアが約6000メートル。

13フロイス、前掲書247頁

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