Centenário

ウェンセスラウ·デ·モラエスの日本一作品から
日本における·モラエスの 暮らしの読み方

レヘマリア·ジョアン·ジャネイロ*,岡村多希子 駅

ウェンセスラウ·デ·モウエスの作品はほとんど専らひとつのテーマ、すなむち日本を扱っている。そして、シャム、中国あるいはマカオについてのエクリチュールはあるにせよ、「彼の大日本!…ああ、君たち、ぼくはもう一度また両手にぼくの好きなテーマを抱いているんだ。」

「日本は彼のテーマであった。しかし、彼は、自分の作家としての力がポルトガルから、自分のラテン的審美家の気質から、自分の好奇心にみちた、批判的な、美しい光景をうっとり眺める外国人の目から来ていることを深く感じていた。それを自分のぺンがポルトガル語の音楽的な色と輝きで写しだすことができることを。」1ウェンセスラウには祖国との深いつながりがあるが、とりわけ認められるのは、情熱的なくらしぶりが示しているような日本に対する深い愛情、熱情であり、「日本人の情格、習慣、生活、知恵についての深い知識である。いくつかのこまかい点でみれば、彼の深い共生とゆたかな感性がわかる。」2テーマの多様性は全作品いたるところに認められる。「私の作品を熱心に読む人は(…)私が、日本の風景、日本の芸術、日未の女性に発するちょっとした感傷的、印象的なスケッチを楽しんでいることに気づいただろう。さまざまな観念のこれらの組合わせは一貫性を欠いているように思われるかも知れない(…)文化、生活、土地、のさまぎな面について関心をいだきつつ、ウェンセスラウ·デ·モラエスは、深く愛した国民の伝統、習慣、風俗、全文化についての趣向と知識を開示する。「(…)彼の作品に入りこびにつれて、作品か多様化していき日本人についての知識が深まるのに気づくのは興味ぶかい。まじめに体系的に記述するのは彼の性に合わない。それに私も、そのときどきの何気ない覚え書き、日記、随想などから成っていないような本は理解できない! 」3

覚え書、随想。文学であるにせよ、旅行記であるにせよ、ウェンセスラウ·デ·モラエスの作品はすべて、日記や思い出の記のようなもので、できごとを述べ、多種多様なテーマについて考察し、歴史や伝説を語る。書く、しゃべる喜びの所産ー「退屈であるぅとうるさかろうと構うことなく気の向くままに勝手気ままに書かれたことの自在さを認める最初の人間だ」ーであるウェンセスラウ·デ·モウエスの作品は東洋を西洋との出合いであり、ふたつの世界の対決の場である。そこでは結合はあり得ず、それについては、ウェンセスラウ自身、しばしば、「人種的アンタゴニズム、特徴、感情ゆえに完全な統合は不可能なことを認めており、単に近寄ることすら可能かどうかわらないと考えている。」しかし、「大日本」のはしがきの中でセリーナ·シルヴァが言っているように、「日本人についてのウェンセスラウ·デ·モラエスの知識の深さは、西洋と東洋の価値の調和的総合の可能性を示している。不可能なことが「実現されたのである。障壁は除かれた。大日本に魅せられたこのラテン人の広大、豊富、調和的、独創的作品は、そしてそれだけが、彼の長い日本生活が彼に拒んだもの、大日本への完全な統合を成しとげたのだ!今日。常に! 」4

マルティンス·ジャネイラは「失われた魅力の庭」の中で言っている、ウェンセスラウの本では彼の精神的伝記を理解することはできない、と。しかし、彼の実際の伝記、彼の日常生活をとらえようとすると、うまくゅかない。ウェンセスラウは伝記を残してくれなかったのだ。ウェンセスラウの作品は本質的には伝記的性格のものではないが、それでも、伝記的性格の記述、內的印象、何気なく記されたメモなどが認められている。ウェンセスラウ·デ·モラエスの作品はどれも、文学的論述というよりも、作者の日常生活の記述、印象、覚えがき、ちょっとした時事的エッセーとか手紙を通じて語られたライフヒストリーであり、打ちあけばなしの調子であるにもかかわらず、最も內的な感情は明らかにされていない。ウェンセスラウは、日本について語りながら自分について語っているのである。日本と日本人について述べながら日本での自分の生活について述べているのだ。

留意しなければならないのは、ー具体的全体としての生活ではなくて、生活に対して話し手ガ与える意味である。「ライフヒストリー」5を書くことは、体験したできごとを時間的順序にしたがって書くことではなくて、体験したことに意味を与えることである。面白いのは、主体たる語り手が「ライフヒストリー」を一連のできごとの連続した統一性のある展開として語ろうと努力していることである。語り手の目を通して語られるのは彼ではなくて、「彼の世界」である。経験するわち「私」と「世界」とのあいだの相互作用は、「個としての私」と「個別化された世界」、つまり、何としての主体の形成を通じて現れる特殊な個別化という形をとった所与の宇宙を我々に示す。伝記的方法のパースペクテイブにしたがってウェンセスラウ·デ·モラエスの作品を分析すると、日本における彼の生活の軌跡、とりわけ作者が我々に伝えるヴィジョンを観察したくなる。個人的体験を時間的順序にしたがって追って日本での作者の生活を再構しようということではない。見たいのは、彼の生活ー放浪ー軌跡と彼の日本観である。つまり、物語的言説を通じて、彼が書いている世界、「彼の」世界に達したいということなのだ。

要するに、彼の作品を基にしてウエンセスラウ·デ·モウエスの生活を簡単に読もうということなのだ。それも日本に関する生活を。ウェンセスラウ·デ·モラエスはしばしば同じテーマ、同じ問題をとりあげてはいるが、彼の作品には進化がある。それは、長年にわたる交際を通じてはじめて可能となった深化、新しい「読み」新しい「見方」の所産である。その進化を時間的空間的に三つのモメントに分けて眺めることにしたい。

第一モメント、すなむち「旅の時代」は、作者のマヵオ時代(1889-1899)に対応し、この頃の日本についてのモラエスの知識は何回かの訪日の産物である。

第二モメントは、兵庫、のちに大阪神戸領事時代(1899-1913)にあたる。

第三モメントは、公的生活を退き日本生活に決定的に浸る決意をした徳島時代(1913-1929)。

第-モメント、旅の時代—「日本の追憶」7

この時期のウエンセラウ·デ·モラエスは魅了された旅行者であるが、なにげなく書き記す訪日印象記に、どれほど彼が日本に魅了されたかがすでによく表れている。

「日本の追憶」の章を含む「極東遊記」(1894)は、「大日本」とともにこの時期の作品に数えられる。彼が作家として認められることになったのは、日本の国と人に魅惑され、自分の感じたこと、熱情を伝えようとして美しい文章を書いたためである。

1897年刊行の「大日本」もまた訪日の成果である。「大日本」と「日本精神」「日本史」についてマルティンス·ジャネイラは言っている。「地方色豊かな絵画的興味のある何節かを除けば、これらの本に書かれたことはことごとく今日では意義失っている。(…)科学的価値を多少は持っていたとしても、日本文化·民族誌学についての最近の研究の結果、それは今日失われてしまった。」8方法の稚拙さ、素材の選択、判断力の欠如などを挙げて批判している。「知識の普及と主観的語りが入りまじった調子が、客観的信頼性に関して我々を留保させる。」9しかしながら、普及的性格と主観性にもかかわらず、― これらの作品のみならず彼の全作品におけるこの主観性 ― にもかかわらず、ウエンセスラウ·デ·モラエスは、日本人と日本生活を描くにあたって繊細この上ない感覚と認識を示すが10、とりわけ、「彼の世界」と日本についての「彼の見方」を我々に明らかにする。他方、ジョルジェ·ディアスが述べるごとく、11「『大日本』において彼は大発見時代以来のポルトガルで刊行された最大の旅行記を書いた、ポルトガルの大散文家のひとりである。」

第一モメント、旅行時代、マカオ滞在中にモラエス12は何回か中国と日本を訪問する。ちょっとしたエッセー、マカオ生活と中国旅行についての印象を書きはじめ、中国人と中国社会を知ってゆくが、中国に真の幻惑を感じることは決してなかった。その幻滅感から彼はときとして厳しく意地悪く中国人と中国の土地を語ることになる。日本と中国を比較するとき、幻滅感はさらに広がる。「そのコントラストは長年中国に住み、その装飾、その海岸の不毛さ、その集落の汚らしさに慣れた者にとって、実に驚くべきものがあった。そこには、ヨーロッパ人にひどく敵意を抱くひどく醜い人々が群れ、ロティが…黄色い地獄と呼んだところのものを構成している。」

日本ははじめての訪日以来、彼を魅了する。「私は日本に着いた。日本を気の狂わんばかりに愛した。ネクターをのむように日本をのんだ。」日本の生活、社会、伝統、古い宗教、民衆、女性、風景が彼の心を魅きつける。日本と中国のあいだには深淵が横をわる。「洞穴を出て庭園に入るようだ。」

ボヘミアンなくらし、チャヤ、ゲイシャ、サケ、ゲイシャのひくシャミセンの音などのこまごまとした描写のうちに、日本発見の彼の旅の時代をたどることができる。ここには、日本の土を踏んだ最初の瞬間から、日本の国、国民、女性に魅了されたことが明らかである。彼のゲイシャであるおこよねさんといっしょに、その優美さにひきつけられて長時間をすごしたチャヤへの訪問のひとつを実にこまごまと述べている。

「絹ずれの音、ホのキンキンいう音、引きずるような足音。おこよねさんは部屋の入口で草履を脱いで、家庭的な小妖精のように口もとに微笑をうかべながら私の方に来た。しとやかな幽霊、しとやかな、ただしとやかな。小麦色で小さな、常にすがすがしい桜んぼのような口もと、漆黒の眉と髪、大きく優しい栗色の目。仕事の道具(彼女がパンを食べるとすればそのパンを稼ぐ道具)であるサミセンをつかむ、ひざまづく。糸を1本づつつまびく。唇からつぶやきを漏らす。指が楽器をかき鳴らす。私を見つめる。私にほほえみかける。ちょっと中断しては、銀きせるを吸い、ハンカチを口にもってゆく(…)。ついに歌は単調なリフレインになる。三味線の糸は象牙のバチの打撃のもとにうなり音をあげる。食事が出てくる。異国情調あふれるごちそう。おこよねさんはきまりにしたがって、食べない。ただサケをのむだけ。ときどき私たちは仲よく盃を触れ合わせる。この国ではこれは親愛のしるしなのだ(…)

彼のボヘミアンらしいぶらぶら歩きはチャヤやゲイシャとのつきあいに留まらない。東京ではエドモン·ド·ゴンクールとともに吉原を訪れる。その「歌磨」をそのとき読んでいた。

「夜、吉原を訪れる。(…)私は数日前にゴンクールの著書『歌磨』、画家歌磨についての研究書をひもといた、私の知っている日本生活に関するいちばん面白い本(…)私は吉原に向かい、車夫を案內人にして人力車で行った…。」

日本女性にウェンセスラウはあまりにも幻惑されたので、彼はどの作品にも日本女性、ムスメに多くの頁をささげている。彼を幻惑するのは日本女性の美しさではない。とりわけ、彼女たちの繊細さ、仕種、しとやかさ、やさしくて大人しそうな外見なのである。「ムスメの魅力は彼女たちとの交際にある。(…)しかしムスメの魅力はあらゆる点にみられるのだ。彼女のあり様、彼女の感じ方全体の異国情調のなかにあるのだ。彼女のちょっとした仕種さえも私たちにとってはもう驚き、啓示なのだ。」さらには「(…)魅力はとくにその仕種にある。たとえば、ちゃわんなどを口もとに持ってゆくときの、うちわを動かすときの、ギターをつまびくときの、ししゅうをするときの手の動きに、絹のざぶとんの上に折る脚に。」

さらには、ムスメの衣服—キモノとオビ、その色合い、女の肉体の上に作られる形態—が彼魅了し、衣服について美しく官能的な描写をする。

「(…)これらのキモノとオビは想像しがたいほどの色彩に富んでいて、肉体をやさしく抱きしめている。キモノは、その前面の合わせ目のところで、胸とくびとの美しい鋭角(幾何学はかってこれほど詩化されたことはない)をあらわにする。長い袖の波うつ曲線から出る形のよい腕をあらわにする。キモノは、そのあと二重に折りたたまれて、ツリガネ草の花冠の形のように下に垂れてかかとに届き、黒いうるしの台に赤いビロードの鼻緒で抱かれた白い足の素肌を見せる。オビは、コントラストの美しさを思わせる別の色合をしていて、その重なり合う部分に日本女性は財布、お守り、象牙のサックに入れたキセル、こまごましたものをはさむ。」

日本人男性についてはほとんど触れない、彼は男性を審美的に女性よりずっと劣るとみていたからだ。ユーモラスにこう言う「男性を眺めていると、彼らがいなかったら日本はもっとずっと素敵だというおかしな結論にいたる。彼らの存在がめるせるのはただ、彼らには娘がいる、ムスメの無意識的ではあるが永遠の生産者であるという利点からだけである。」

ウェンセスラウはムスメの魅力に夢中になるだけではない。風景、民衆、芸術もまた彼に美しい叙述をさせる。田舎や都会をめぐる。中でも日光、鎌倉、江の島を訪れ、その景色や寺院に魅きつけられる。神社、仏閣といった信仰の地を訪れる。「日本の新奇な風俗を知りたくて民衆の中に立ちまじる。」「日本人の生活の內側のくらしにみられる新しいもの、思いがけないものが私を魅了し、私を幻惑する。私がえんえんと歩いてどこかわからないけれど、人々の波にのみこまれ、彼らのあとについてとんでもない 人知れぬ場所にまで行くのは何故なのかが、これでおわかりだろう。」

横浜から大阪に汽車で行く。「横浜大阪間の汽車による長い旅行は何度も経験したが、外の景色を眺め、日本人といやでも仲よくなれるということからとても興味ぶかい」旅の道連れたちを観察しょうと考えて、「切符を買うと、観察地点を注意深く選んで列車に身を落着ける(…)。それから車輌の隣人たちに好奇心にみちた目を向け(…)」日本人、日本人の習慣、風俗についての印象を語る"風景も同様に眺めて、稲田、村落、人々、ホと紙の家を描写する。

大阪に着く。街を夜をなく昼となく経めぐり、群衆に立ちまじり、都会生活、「しゃれた店」での商売、しごと、祭り、街路や、小路や運河に集う人々を観察する。

「(…)あのときほど好奇心にまかせて歩きまわったことはない。ポケットに地図を入れて、たびたび地図を調べ、あらゆる迷路に入りこんだ(…)。寺院やチャヤを訪れ、田舎をぶらついた。事物に絶えず魅了されたまま、ただ目だけで生き、自分の存在を忘れた自由気ままなくらしには際限がないと判断するにいたった。」

大阪から京都に行く。「寺院、寺院、いたるところ寺院。蝟集する僧、歩く参詣者たち…。何時間かが経過して疲労困憊のあまり倒れそうになったとき車夫(同時に自国の伝説的事件を疲れを知らずに語ってくれる案內人でもある)は言う、まだ23の寺院が残っており、それらを見物しないと観光客として面目を失することになるだろうと。」奈良では、大仏を訪れて感動する。「その巨大な形とその魂によってあらゆる空間を占めている。象徴的なハスの花の上に腰かけ、右手を開いて挙げ、左手を膝の上に休めている。いかにも自然らしい衣の広やかな襞には、何世紀にもわたる緑青がビロードのようなふんわりとした外見を与えている、ほとんど祝福を与えるような厳しゅくな仕種、さらにはその全身から放射される崇高な自己犠牲にみちた安らかな表情からは、私を感動させる力が流れ出ている。」

最後に別れ。「もう日本とはお別れだ、最後のサヨナラ…」

「サヨナラ…これは日本語の中でいちばん甘いことば、外国人の耳がすぐに慣れることはだということをご存知かしら。(…)」

しかし、マカオ政府の公用で何度か短期で日本を再訪する。そして、1899年、兵庫大阪ポルトガル領事に任命されて日本にやってきて、そのまま留まることになる。

第二の、モメント 「日本夜話」13

第二モメントはウェンセスラウが兵庫の、のち大阪神戸のポルトガル領事の公職にあった時期(1899—1913)にあたる。1898年、マカオ公務司令のポストを自分より地位の低い將校に奪られたために、在日領事に任じて欲しい旨ポルトガル政府に求める。神戸では真の日本的雰囲気のうちに暮らそうとつとめ、日本の生活の中にきわめてよく入るこむことができ、彼の生活は変容し、ポルトガル領事としての身分上避けることのできないことだけを行なっていたにすぎなかった。大阪のゲイシャであるおヨネと結ばれるのはこの時期であり、1900年、神道式の結婚を彼女とする。おヨネについてはほとんど何も語っていない、あいまいに多少触れるにとどまり、料理女とか女中として彼女について述べている。「私の料理女、おヨネさんは、私が栗が好きなこと、私がはなしを聞くのが好きなことを知っている。他愛のない暇つぶしだ。昨夜の食事のとき私に栗料理を出した、次のようなはなしをしてくれた(…)。」公務から退いて徳島に行ったのちになってはじめて、ウェンセスラウは「おヨネとコハル」の中で頻繁におヨネに言及する。彼女の死のちょっと前におヨネと敦盛塚を訪れたことを語る。「(…)その地への最後から二番目の参詣は、今なお消えない深い感銘を私に与えた。あわれなおヨネと出掛けた最後の散歩であった。1912年6月20日、光り輝く晴れた日であった。私はいっしょに行って、彼女自身の目で敦盛の墓を見るよう彼女を説得した。敦盛のはなしは、どの日本人も知っているように彼女もよく知っていた。私たちは出掛けた。あまり気分がすぐ。れずに、ふだんは自宅にひきこもっている彼女が、なぜか知らないが、元気づき、暖かな微風に触れて浮きうきし、あたりの青々とした景色を前に感動していた。何ケ月前から衰弱のしるしをみせていた彼女の顔がやさしく微笑んでいた。私は案內役をつとめた。(…)敦盛の墓を敬意をこめて眺めた、と私は言った。それは、信仰や宗教とは関係なくあらゆる墓が抱かせるあの心の奥深くから自然に湧く敬意の念であった。(…)その場を立去る前に、近くの小さな茶店に立寄った。そこでは、愛らし少女がその地方の珍しいものといっしょに敦盛にちなむある種の特別なたべものを参詣人に食べさせてくれる。おヨネはそれを味わい、おいしそうな桃を買った。すぐにひとつ食べ、ひとつを私にくれて、残りを家にもち帰った、散歩で気分も晴れやかに、笑いながら……。

ちょうど2ケ月後、8月20日にあわれなおヨネは死んだ…。」

この時期の彼のくらしぶりをたどることは容易ではない。ポルトガル領事としての公的立場のために彼の作品は私的なものを避け、自分自身について、自分の生活については語らない。自分の家、散歩、チャヤへの訪問について何気なく簡単に述べるにすぎない。しかし、日本について語るとき、自分自身について、自分の感情について、自分をとりまくすべてのものに関しての自分の感性について、風景の美しさについて、聖地について、儀式について、祭礼について、人々について、その文化について語るのである。

ここにはもはや、旅行記を書く旅行者はいない。だが、人々と土地に魅了された外国人であることには変わりない。彼の作品はなお旅行記や日本人の生活と文化の諸面についてのちょっとした物語という特徴を保っている。すでに、日本と日本人についての別の読み方、別の視線を示している。同じ旅行記のスタイルを保ちながらも、テーマを深化し、こまかな点をはっきりさせようという配慮がみとめられる。そして、選んだ対象に対する関心と愛措から生まれたテーマを深化するというその必要をウェンセスラウ自身が「夜話」の中で伝えている。

「数年日本に滞在して、異国情調あふれるやさしい風景を驚きと興味を愛情をもって眺めてきた人は、細かいことを拾いあつめ書きとめたいという欲望を自然に感じる。たしかに、そのしごとにとりかかり、選んだモチーフを深めようとすればするほど、それを理解(日本と日本人を理解する、つまり自分をとりまいている深い神秘の中に入りこむことの不可能なことをますます納得する、しかしながら、ときどき、事物を束の間感知することがあり、それは、ぱっと味わうに充分なほど強烈である。研究者はこうした自分のテーマに恋し、実現したちょっとした発見に夢中になる。すると、甘い自己犠牲の衝動から、自分の恋しているもの、? 夢中になっているものを他人に、遠くにいる同国人に伝えることができるものと考える…だが、そういうことには滅多にならないのだ。こうして、経験した感助を書いて新聞で伝えたいとの考えが生まれる。間もなく論文が雑誌の記事や書物となって公表されるが、大抵の場合、それは、不用意な読者を退屈のあまり居眠りさせることになる。」

この時期の文学作品の特徴は、要約すると、物語的性格である。「ポルトガル商較」用に書かれた通信—「日本通信」と「日本生活」(1902から1913)と、1906年から1909年にかけて雑誌「夜話」(リスボン)のために書かれ、のち(1926)に一本にまとめられた小随想である「日本夜話」はこの時期に属する。さらにこの時期のものとしては、日本風俗と生活を綴った「日本と中国の風景」(1900年ごろ執筆され1906年刊)と「茶の湯」(1905年神戸刊)がある。

公職にあったにもかかわらず、ウェンセスラウはちょっとした旅行を欠かさず、とりわけ民衆に立ちまじり、群衆とともに祭礼、寺院などを訪れていた、またキクの栽培地を見に、梅見に、サクラやつつじの花見に出掛けている。

度々の寺社詣でについて、「日本夜話」の中で、日本の寺院と西洋の寺院とを比較して参詣地に関するきわめて興味ぶかい記述をのこしている。「西洋の寺院のプロフィールにおいて圧倒的なのは垂直線である。地から発し天に向かうこの線は、信者の衝動の図表的シンボルである。日本の寺院においては、水平線への志向がみとめられる。水平線は、大地、万物、運命に対する満足感を示す。(…)建築家の関心は何よりもまず第一に、その位置のやさしさ、付近の木立、小川、まわりの風景の愛らしい美しさを選ぶことに向けられる。(…)。」彼の視線はしばしば信者、参詣者のあとを追う。人々に立ちまじって寺院の中に入り、宗教儀式に立会う。

ウェンセスラウ·デ·モラエスは、ラフカディオ·ハーンと同じように、日本の欧化を批判し、日本の国粋主義的思想を支持し、西洋世界への日本の開国の結果に反対の立場をとる。「数多の悪習、不信感とともに西洋文

日本社会の価値を失わせることになりかれない大きな危険として彼の目には映じる。とはいえ、「その聡明さのみごとな手本を世界に与えてきた、30年余でその神秘的孤立から近代文明へと浮上することのできたこの驚くべき国民は(…)自分の立場と、ますますの強大化にむけて進むべき正しい道をはっきりと心得ている」と確信している。

「日本の娘」ムスメの魅惑については、肉体的な美しさをたたえたり、その魅力をあげる。「彼女に魅力があるとしたら、それは性的特徴に由来するものではあり得ない。せいぜいのところ、線や絹とサランのさやさやいう波立ちの色調ゆたかな魅力である。さらには、花の魅力、昆虫の魅力、色あざやかな羽をした鳥の魅力である。」そして、描くのは単にムスメの魅力だけではない。今や彼の目ざしはさらに遠く及び、家族と日本社会における女性の立場をとらえようとする。ウェンセスラウ·デ·モラエスにとっては—西洋の新しい社会思想は西洋社会の悲しい堕落のあらわれであるとする保守主義者—女性の役割、「女性がその本領を発揮するその真の王国は家庭內である。」というのも「彼女の社会的分野における地位は最低だからである。」男性は「家庭の長である、彼が支配者である、彼は王である。女性は彼に服従する(…)。」

「日本のいちばん魅惑的なもの、ムスメ…私についていえば、私はムスメの白い手によってここに連れて来られたのだ。彼女は私の腕をとって導き、決して私を放さない(…)。彼女がこの魅惑にみちた国の道を案內し、満開の桜へ、緑の松林へ、祭礼中の寺院は、伝説の地へ、紙の家へ、幸福な人々へと私を連れていく。どこへ、この上、彼女は私を案內するのだろうか…私にはわからない。あるいは、長い散歩の果に奇妙な静寂、碑銘が半ば消えた苔むした墓石、赤いつつじ、飛び交う蝶、蝉の鳴声に満ちたどこかの村の墓地へであろう。私はそこのやわらかい土の枕に休むよう誘われ。それを当然のこととして受け入れる(…))

第三のモメント: ケトージンからモラエスさんへ—「追慕の宗教」14

第三のモメントは徳島在住時代(1913年から1929年)にあたる。1913年にウェンセスラウは神戸ポルトガル領事を辞任し徳島に移り住む15。自分の送り? たいと考える私生活と公的生活とが両立し得ないためであった。彼をポルトガルにつなぐ絆がほどけてゆく。彼にそのような決意をさせたのは幻滅、ポルトガル政府の不公正、それに1912年のおヨネの死であった。公的生活を棄てて日本の生活の中に決定的に入ることに決める。「人生の晩年にそして旅のほとんど終りに、できるかぎり自分の国のためにづくしたあとで義務と権利をすてる可能性、口実、勇気を自らのうちに見出し、同国人の正当な無関心につつまれて忘れ去られ、貧しく、孤独な生活をするものは幸いなことよ。私はこの可能性、この口実を見出し、この勇気があった。そのため、生涯のあいな愛情には恵まれはしなかったが、運命に今日満足しており、自分のなした精神的自殺を悦んでいる。」ポルトガルに帰りそこで退役生活をたのしむという考えはおヨネの死後棄ててしまう。日本の伝統にしたがっておヨネの生地である徳島にひきこもる。

「私が隠棲の地として徳島を選んだ理由、これはまた簡単に説明がつく。

しばらく前—2年ほど前に—8月のあるタ方、ある人が私の手を自分の手につつんで、ある切実な願いを私にした。あわれな人で、母親も兄弟姉妹も多数の家族がいたのだが誰ひとりそばにいなかったし、率直にいえば、。彼女のことなど誰も考えてやらなかったのだ。私がどんなに厄介と思われるようなことでも自分の希望を心からかなえてやろうとする唯一の人間であることを知っていた。そこで私に頼んだのだ、自分の生命を永らえさせてほしいと…

ところが私は彼女の願いをかなえてやらなかった。かなえてやる力が私にはなかったのだ。彼女はあきらめのことはをつぶやき、最後の力をふりしぼって私の両手を握った(私がまだそれを感じているかだって? …)そして死んでいった…

死の翌日、彼女の遺体は神戸の火葬場で焼かれ(…)遺骨はそのあわれな故人の故郷の徳島に運ばれて、町のいくつかの墓地のひとつに、質素な墓の墓石の下におさめられた。さて、何ケ月かがすぎて、役職をすて、権利をすててまったく自由に、まったくひとりぽっちになった。この単なる事実によって、ある決意をする義務を果さなければならなくなった。

私はそのとき自分自身につぶやいた。ふところにある金を勘定し、自分の気まぐれを実行できる限度をはかってみる。お前は自由だ。前進するがよい(…)。生者から逃れる。徳島に、お前にいとしい名前を思い出させ、。お前になっかしさをかきたてるあの墓のそばへ行け。

人は、お前になお地平を開き得る唯一の生活である感情生活に関しては、希望と追慕というふたつの方法でのみ生きてゆく。人生の旅のほとんど終りにあって、あらゆる希望が失われた以上、追慕のうちに慰安を求めるのは当然だ。

そこで私は徳島に来たのだ。」

しかしながらおヨネの死が彼の決定に大きな影響を及ぼした―とりわけ場所の選択において—とはいえ、「ウェンセスラウが故人の思い出のためだけに生きることになったと考えるのはあやまりである、我々のあいだでそんな風に考えられ書かれてきてはいるが。日本や中国では死者は生きているのだ。単に肉体が果てるだけで、その魂は、愛情を与え受けとる人格の力は家に存在し続け、読書に加わったり、干渉したり、監視したり、守ったり(…)する。夫や妻をなくした人がすべてを売り払ってそのつれあいの墓のそばに暮らしに行くことは日本ではよくある。ウェンセスラウは日本の旧習にしたがったにすぎない。」16

彼の公職からの隠退は解放とみることができる。「(…)というのは—今、私はいつわりの外見をした洗練された生活—文明化された大都市での生活のように—の苦々しさからかけはなれた田圃の素朴な風景を前にすると、自立した自由で安らかな雰囲気につつまれている、と思うのだ。大都市の生活には私の弱った精神はずっと前からどうしても向いていないことがはっきりしていた。」今や、「彼は自由に自分の時間を作家活動につかい日本生活のぞの純粋な泉に身を投じ、清らかなその水にひたることができる。今は、遠慮なく自分自身について語ることができる(…)。」17「(…)思いがけなく、人生の晩年に、徳島の孤独の中で、私の精神の前に全き行動の自由が与えられた。したいことをし、考えたいことを考えてよいのだ。」「日本歴史」(1924)と「日本精神」(1925)を別にして、彼の書きものがより個人的なものなるのはこの時期である。この時期の彼の作品は日記のようなもので、彼は自分自身にっいて、自分の生活について、徳島での日常生活について語る。「徳島のぼんおどり」(1915—15)を書く―「內的印象のノート」というのがそのサブタイトルである。これは日本にある特徴的な文学ジャンルである。ニッキすなむち內的いみしょうのノートであるこのジャンルをウェンセスラウは、徳島の人々やくらしについて、また同じように自分自身や自分の家、自分の日常についての印象を叙述するのに用いたのである。そして、「印象」を書きはじめるいたり彼自身が断言しているとおり、それに日記の形態を与えることにする。「日記は、書かれた時期や季節にあきらかに依存する印象記という文学ジャンルに好都合である。」その後、「コハル」(1916)を書く。これは最初は小冊子で、のち「ポルト商報」の別冊で出版される。「コハル」はその後「おヨネとコハル」(1923)に含まれることになる。この作品はよりパーソナルな本で、彼はもはや「外から眺める」観察者ではなく、より深い印象、感情、思い出、徳島の町での日常を描く。今や中心人物は彼である。

四国にある「村落の習慣をもった大都市」徳島に隠棲するに際し、彼はすべてを棄てる、すべてではなく。「神戸の住居(家と事務所)から徳島のこの隠居所に移るときに、ほぼ60年間にわたって積みあげてきた無効のこまごましたこのを賢明にも投げ棄てた。しかし、それでもほんのわずかの物が、量の上ではわずかではあるがきわめて価値の高い物が手もとに残った。それは、どんなことがあっても私は手放したくなかったし、手放すことができなかったのだ。私が今日にしているのはこの残りの物であり、これが、日本人の嗜好の法則に反して私の流寓の一室をみたしている(…)。しかし、私は日本人なのであろうか、確かに日本人ではない。人種は棄てられるもめではないし故国も棄られるものではない。センチメンタリズムのにおいのするものは何もここにはない。運命の気まぐれのために地球の反対側に追いやられても、何世紀にもわたって限りない祖先からゆずられてきた性向とか好みといった世襲財産を棄てられるものではなく、棄てることもできない。したがって、白人文明から完全に孤立してはいるものの、私は白人のひとりであることを、白人であり、感情を肌の色においてポルトガル人であることをやめないであろう。どんな細部にいたる特徴までも私の個性は明らかなのだから。」彼は思い出の書物を細心の注意を払って選ぶ(カモンイス、フェルナン·メンデス·ピント、ラフカディオ·ハーンなど)。「こどもじみたもの、つまらないもの、ことごとくが思い出になっている。(…)私のつられ心中は、遠い過去を語ってくれるすべてのものをとらえ抱きしめたいとのおもいであらゆる方角に伸びる巨大な足をもった大蛸にたとえることができる。」そして、彼が晩年をすごすのは、その地方都市なのである。「さて、この神々と仏たちの地、徳島に、私は私の庵をむすびに来たのであり、肉体と精神のために平安と静穏を求めに来たのだ。無謀さ、信じられない無謀さだ、金髪碧眼の男にとっては、白人種の人間にとっては、ましてやポルトガル人にとっては! 」ここでコハルと暮らし仏教に改宗する。マルティンス·ジャネイラの考えでは、仏教への改宗とは日本人の心により深く入りこむやり方として仏教教義をとり入れたということであり、その証拠として「彼の作品は、古典文学に表現されたものにせよ日本の家族生活にあらわれている行為にせよ、彼が仏教思想に入りこめば入りこむほど深まっている。」18一方では、彼の仏教への改宗はまた、日本人家族の中により容易に受け入れてもらうための試みではなかったろうか。

コハルについて書いている「私はコハルという女性もよく知っていた。ほんの数日前まで彼女とおしゃべりをしていた。(…)コハルは、健康を売っているかと思われるような、背の高い、小麦色の、陽気な、生きいきとしたむすめであった、美人とはいえなかった。それとはほど遠くすらあった。だが、ほっそりとした横顔、おてんばらしいきびきびした動作—彼女は主として戸外で育ったのだ—率直な柔和な目ざし,まっ白な二列の歯並びを見せてロ元に絶えず浮かべる微笑、かっこうのよい手足に魅力があった。それに、彼女のような貧しい階級の大部分の女にくらべれば、聡明であった。自然の美しい事物を前にして好奇心の強い、研究心のある。感じやすい、芸術的なすぐれた気質に恵まれていた。また、夢みるような詩情がその火のように熱い悩みその中にかもし出されていた…。」コハルは25歳で結核で死ぬ。ウェンセスラウは、徳島の病院に入院する日からその死まで病人に付きそう。

「徳島のボンオドリ(死者の祭りの踊り)の初日。すなわち1916年8月12日の午後、コハルは、家から徳島の病院へ、彼女の特別な希望によって担架で運ばれた(…)コハルはたいていひとりぽっちで、付き添いとしては苦痛があるのみだ。私は毎日、数時間、見舞ってやった。親戚や知人はめったに来なかった。父親すら、母親すら。姉妹たちもほとんど姿を見せない。(…)いま挙げた事実は、はじめは、ヨーロッパ人としての私の情熱的な感性をいたく刺激したが、よくよく考えてみたら、自然であり、創造の普遍的法則にかなっているように思われた。はじめ、私は考えていた、両親というものはすべてのもの、すべての人— 自身の利益や健康な子どもへの配慮— を犠牲にしても、苦しんでいる病気の子を救いにかけつけるものである、と。まったくの思い違いであった。少なくとも日本の貧しい階層に関する限り、思い違いであった。(…)コハルは、健康で將来性のある子どもたちのために見捨てざるを得ない病弱な雛になったのだ—彼女の世話をするのは私だけであった…」コハルの死(1916年10月2日)後、彼は完全にひとりになり思い出を追慕に生きる。「常に追慕、常に追慕が我々を責めにくる! 」過去の追慕に生き、愛した二人の女性の思い出に生きる。

「先に述べたとうに、6月の最近のある夜。9時ごろのこと。ひどく生あたたかく息苦しい、霧につつまれた、暗くじめじめした夜であった。

(…)

私は外出し、同じ墓地にあるふたつの親しい人の墓に参り、店で多少の買物をした。そして今、家に帰るところだったが、疲労し、いらいらし、不機嫌であった。それは確かに無情な天気のせいであったろラ。

(…)

徳島のにぎやかな通りをめぐってから、私は、私の家に近い、村といってもよいような静かな街区に入る。すぐに闇と静寂に沈んだひどくさみしい私の家のある通りになる。(…)さて、私は玄関に着く、泥棒の訪問から私を守ってくれる南京錠の鍵をポケットに手を入れて探す、鍵が見つかる。だが、暗くてよく見えず,身にせまるわびしさ、重い包み、いらだたしい疲労、濡れそぼる小雨で不機嫌な私は、たびたび試み、いろいろやってみたものの南京錠の鍵穴を探り当てることも、戸を開けることもできない。(…)その時であった。家の玄関先に堂々と勢いよく立っているただ一本のホ、樫の木の繁った枝の中から螢の青味がかった光が現れ、私のまわりを回りはじめた。私の手と南京錠のすぐ近くだったので、私は難なく鍵をうまく使って、家の中に入ることができた。

偶然にも大きく孤を描いて飛んできて、親切に窮地を救ってくれたありがたい虫よ!…偶然であって? どうして計画的でないといえるだろうか。…私は、今や、奇妙な推測をあれこれとしはじめる。およそ7万の人口を教える徳島のこの大都市で、たったふたり、同じ家族に属する、庶民の出である地元のふたりの女、叔母と姪のおヨネとコハルだけは、もしまだ生きていたら、泥道を草履をひきずりながら、透明な紙をはったちょうちんを指に下げて遠くからやって来て、私の足元を照らし、玄関を開ける作業を手伝うという厄介なことをしてくれたであろう。しかし、これらのふたりの人間にもはやここに来ることはできないし、決してここに来ることはない、もう生きていないのだ。死んだのだ。(…)いいや、彼女たちはもはやここに来ることははできないし、決してここに来ることはない。(…)それにしても、あの虫は…死者が、生前にいとしい思い出を保ちながらも、他の肉体、たとえば鳥や虫に姿を変えてこの世に戻り得ると信じているのは日本人ではないか…

私の心がそれ自身になげかけたこの最後の問いかけののち、私は何だかよくわからない苦悩が重くのしかかるのを感じ、不意に心臓の鼓動がとまった。ほんの一瞬であった。すぐに落着くと、思わず次のことばを口にした。おヨネだろうか…コハルだろうか…」

また別のところでは、日々のしごとを、ひとりぼっちでの、あるいはむしろ猫や、妹、おヨネ、コハルといった愛するものたちの思い出といっじよの祭日のごちそうについて書いている。

「1919年1月1日のことであった(…)祭日である。私はひとりきりで家にいる。こんなことはしょっちゆうだ。猫、数羽のめんどり、その他のつまらない動物たちといっしょにひとりきりで。(…)さて、祭日である。すでに家は掃ききよめた、動物たちには餌をやった、ほかのこまごまとした用事をすませた。これから、炭を割り、火をおこして、私のごちそう—祭日のごちそう—の仕度にとりかかる、でははじめよう。(…)

猫といっしょにひとりきりで畳に座ってごちそうを味わっていたとき、猫は鰯は大好きだが野菜スープには見向きもしないのに気がついた。しっけの問題だ。ひとりきり、と私は先ほど言ったが、正確には、いつもそうであるが、そのときも。そして祭日はいつもよりもっと身近に、遠くにいる私の妹の思い出と死んだ女性たちの思い出が私とともにいたことを、記さなければならない。遠くから来て私に向けられていると思われる微笑—私が鰯を食べるときの妹の軽く揶揄するような微笑、わたしが野菜スープをのむときの死んだ女性たち、おョネとコハルの軽く揶揄するような微笑—に応えて、ふっと私はわらいさえしたのであった…。」

おヨネの命日、毎月20日に、尼僧、アマサンの訪問をうける。彼女は「死者の祭壇であるブツダンのそばで祈祷をあげに来るのだ。それは、私の住んでいるこのあばらやにそれとなく住まっている遠く思われる、この世から身罷したあわれな人たちの供養のための祈祷である(…)私の宗教は別にあるのだが、私の宗教なら、何をしに来るのであろうか—彼らの、身罷したあわれな人たちの宗教であった宗教儀式の祈祷である。」彼は孤独のうちに暮らす―「ああ、孤独!亡霊の住まう不毛の広大な野よ…」そこには彼を理解する人もなく、彼をケトージンと呼ぶ。「(…)ここ徳島では、ひとりぽっちの散歩の際、しばしば子どもたちや粗野な人たちが通りがかりに、侮辱的なトージンあるいはケートジンということはを投げかける。日本の他の場所でも同じことがすでにあったが、そう頻繁ではなかっはこ。しかし、私にほほえみかけ、おじぎをして丁重に私をトージンサンと呼ぶあの6歳の少年は、きっと私を侮辱しょうというわけではないのだ(…)月

孤独、幻滅、土地の人々の無理解にもかかわらず、彼の作為のどこにも、日本人に対する侮辱や敵意のことばは見当らない。彼の日本への愛情は維持されて いる。しかし、ラフカディオ·ハーンについて語るとき、「(…)異国情調と長く接触しているうちに、ヨーロッパ一は、精神的な大障壁が、ともに暮らしたい、愛し愛されたいと思っていた国民から自分を隔てていることを、一般にのちになってから、不快な想いをしながら認める(…)と言うのは、自分自身のことを語っているのではあるまいか。ハーン同様、ウエンセスラウは情熱家で、感じやすくデリケートな気質のもち主であった。しかし、ラフカディオ。ハーンがさいごには、自分を魅了した国と国民に対しある種の嫌悪を示すにいたるとしても、ウェンセスラウは日本人への敬愛の念を弱めるとか敵意を抱くことはない。もっとも、日本に受け入れられず、のちも受け入れられるようにならないことを悲しみ心配している様子はみてとれはしたが。「(…)その印象は実に魅惑的だったので、私は楽しく快い気分につつまれ、道行く人たちにほほえみかけた。その人たちも私にもほほえみかけてくれたが、私はそれをやさしい挨拶と解釈していた(…)。自分が思いちがいをしていたこと、心底からヨーロッパ人を嫌っている保守的でつきあいにくい徳島のこの善良な人々のほほえみは白人に対する冷笑と嫌悪を単にあらわしていることを知ったのは、ずっとのちになってからである…。」

徳島に落ち着いて1年後に、自分がとった行動を悔やんでいないと言明する。「(…)流離と隠遁のこの1年のあいだ重大なできごとは何も私味気ないくらしをゆるがしに来なかった。実際、時は、環境と私の新生活の特殊の条件への必要なを適応作業を黙って行なううちに過ぎたのである。(…)だがなやみながらも常に悩みながらも自然の光景のより近くにいると感じることに、恐らくまた自然の光景をよりよく理解していることに、多少の喜びだけは見出している。しかしながら、私は自分の精神的自殺を梅いはしない。むしろ、自分の心の状態自分が宿命的にはまりこんだ悲しい生活情況になんとか折合ってゆける唯一の環境に身をおいているのだと、ますます確信するにいたっている。」

「おヨネとコハル」の中で、より精確には「潮音寺の墓地のごみため」と題する章の中で、ウェンセスラウ·デ·モラエスは、「変哲もないこの私という人間の姿を簡単に描いて友人たちにお目にかける」ことを目的に。孤独な自分自身について、欲望、不安について、とりわけ日本人の家族の中に死後ですらも受け入れてもらえないのではないかという不安について語っている。

「(…)私の目の前にいるその人は、自分自身、他人、一切のものを打ち捨て顧みないといった様子で、人々から愛されもしなければ自分も愛そうとしないがゆえに遠い異国へときどき西洋が放り出す、例のあわれな輩のひとり、例の社会ののけもののひとりらしい明らかなしるしを見せていた。波瀾に満ちた生活の中で恐らく数しれぬ労苦·辛酸をなめ、今いるこの異郷の地でただ少しばかりの平安と一条の温かい陽光と運命に求めるだけの、人生に難破したつまらない人。

その人は身体に合わせない青いフランネルの粗末な服を着ていたが、その服はしわくちゃでほこりだらけで、布地のけぱには猫の毛がいっぱいくっついていた。そのことから、服のほこりを払い手入れをする女性の入念な手がもはやないことがわかった。頭には灰色の縁なし帽。しわの寄った手には太い杖。長い巻毛の頭髪が肩にかかっていた。手人れのされていない長いあご鬚はほとんどすべて白くなっているが、かつて金色をしていたある種の舞は決してまっ白にならない、そういう麦わら色がかった白さであった。(…)

その時刻には大勢いるいたずら小僧どものそばを通ると、「ケトージン」と呼ばわるものがいるかと思うと、揶揄して軍隊ふうの敬礼をしてぺロリと舌を出すものもいた。女の子までもが同じような冷やかしの仕種をしてみせる。だが、日本では女性の身ぶりというのはたいそう優雅なので、その同じ冷やかしが愛嬌に変わり、いかにもやさしそうな感じがする。老人は、感謝しているのが苛だっているのかどういう意味なのか知らないが、それらすべてに軽く笑う。ところが不意に、そばを通りかかる小さな女の子の頭の上に手をのばして漆黒の髪の毛をそっとなでるのが見えた。(…)

老人は、このあたりとは馴染みらしく、天神の社を左手にやりすごすと、山の急斜面に貼りつくようにしてほの暗い小径にそのまま入っていった。(…)ほんの数步進むと、広い墓地に出た。もうこの時には、その老人は私があとをつけているのに気づいていた。立ち止まって、私が近ずくのを待ち、ポルトガル語でおよそこんなふうに話しかけた。

好奇心からわしのあとをつけ、わしがここに何しに来たかと考えていることはわかっておるさ。すく。教えてやろう。まず付属の小さな寺のあるこの墓地の名を知っているかね。潮音寺の墓地というのさ。(…)もうちょっと先に行ってみよう。わしがとても親しくしていたふたりの女のふたつの墓を見せてやりたい。ほら、これだ。左側のが、7年前に死んだおョネの墓だ。その近くのが、3年前に死んだその姪のコハルのだ、これらの墓は両方ともわしが建てさせた。ふたりを偲んでそうしたのだ。わしがしょっちゅうここに来るのはこのふたりの女たちを訪ねるためなのさ。人は生きている友だちがいなけらぽ、死んだ友の中に苦悩に対するやさしい慰撫を見出すものだ。(…)ここの習慣どおり火葬ののちにわしの遺骨を納めてもらいたいとわしが願っているのはこの同じ潮音寺の墓地なのだ、単独にではなく、他の遺骨といっしょに。あんたにこんなことを言うのもおかしなものだが、子供じみていると笑うがいい…長年孤独に慣れているとはいえ、墓の中までひとりぽっちでは怖いのだ。わしが徳島に来たときには、見せてやったふたつの墓のうち、おヨネの墓だけが立っていた。そのとき、同じ墓石の下、彼女の遺骨のかたわらにわしの遺骨も納めてもらえたらどんなによかろう、と思いついた。だが、その願いは近親者たち—母親と兄—から事前に断られてしまった。彼らはいきなり、まるで瀆神的行為かいまわしい冒瀆でもあるかのように宗教的怒りにみちた罵罰雑言を吐き散らした…それは、長年の滞日本生活のなかでわしが見てきた日本人の人種的不寛容の好例のひとつというべきものだった。しばらくしてコハルが死んだので、ご覧の墓を彼女のために建てた。そのあとで、わしは母親にたずねた。「コハルの墓にわしの遺骨を納めるのはやっぱりいやかね…」ところが彼女はいやとは言わない。わしに約束してくれた。そう、この問題は保留にされ、適当な時にきちんとするということになった。しかし、実を言うと、わしはそんな約束を当てにはしていなかった。ほどなく、コハルの父親が死んだ。続いてコハルの子供が死んだ(死はこのあわれな連中がとくに気に入っているらしい)。そして、ザクッ、ザクッと2度コハルの墓は開かれ、追加されたそのふたりの遺骨を迎え入れた。母親がわしに言ってくれたわけではない。言うのが恐らく礼儀にかなっていただろうが。わしがこのことを知ったのは、二人の最近の死者に儀式がささげられたまだ新しいしるしを、墓の上に見出したからだ。そこで、わしは考えはじめた。さて、このコハルの母親は貧しく、だらしのない暮らしをしているため、生活のあらゆるできごとに無関心、無気力であるために、恐らく、偏見や迷信にこだわらない、どんなことにもとらわれない自由思想家みたいなものになっているのだろう。彼女にとっては、娘の墓は、潮音寺のごみためのようなもので、自分の残りものの屑一切をつまり自分の家のすべての死者たちの遺骨をそこになげこむ権利があるものと考えているのだ。そういうことなら、もうひとつかみ遺骨が—私の遺骨が—余分に入ったところで、大して不都合なことにはならないだろう。とくに、わしの遺産のうちから何枚かの銀貨を贈って丁重にお礼をすれば。そこで、彼女との約束が必ず果されるものと信じ、恐らく、わしの亡骸を入れるため、もう1度コハルの墓が開かれるだろうと思いはじめているのだ…

老人はもうこれ以上私に言うことはないという身振りをじた。私は察して、別れのしるしに手をさし出し、自分の名前を告げて彼の名をたずねた。相手はきっぱりと答えた。ウェンセスラウ·デ·モラエスと。」

彼は。1929年7月1日、徳島の家で死ぬ。1919年8月12日付の遺書の中で、仏教儀式にしたがって火葬にして埋葬するよう乞うている。日本人のための聖なる場所である日本の墓地に彼、ケトージンが受け入れてもらえないのではないかという恐ね、心配をあらわしている。この最後の意志は拒否されなかった。火葬に付され、この遺骨は潮音寺の墓地にコハルの遺骨とともにおさめられた。

今日、徳島では、人々は彼をたたえ、モラエスさんと敬意をこめて呼んでいる。

最後に…

旅行者から放浪者へ、ケトージンからモラエスさん、ポルトガルさんへ。大日本を作品の內在化された欲求の対象にしたウェンセスラウ·デ·モラエスは情熱的な語り手であり、その作品は彼のヴィジョン、彼の印象、彼の感情を話し、語り、伝える喜びを構成する。系統だった、写実主義的、科学的言説を拒否し、內的物語りを好み、印象を「ちらりと眺め」、何げなく「おしゃべりする」「思考をあれこれめぐらせる中で內的印象を書く。それは私にとっては特に楽しいのだが、私のあとをついて来る人にはきっとほとんど不毛であろう。」体系的論述に対し、インスピレーションのおもむくままに書くたのしみのために主観的把握を並置する。かくして彼のほう大な作品は、いわば唯一のテキストを構成する。それは彼自身がのぞんでいたことであり、。そのために「日本の異国情調のアルバム」なるタイトルをすでに考えていた。欲求の対象なる日本に常に変わらないことから絶えず同じテーマをとりあげてはいるが、発展的、ダイナミックな作品である。「モラエス作品の力強さは、彼がますます深く日本の魂に人りこみ、その多様な側面をとらえ規定することから出ている。」19

ウェンセスラウ·デ·モラエスの日本生活は連続的、発展的であり、彼の作品には時間と空間におけるその連続性と、その連続性の中に生じてくる亀裂がある。日本との接触の初期にはウェンセスラウは、異国的なもの、絵画的なもの、土地と人のすばらしさに魅惑され熱中した旅行者らしい叙述で、異国情調ゆたかな日本のヴィジョンを我々に与える。確かに表面的なヴィジョンではあるが、ゆたかで魅力的なヴィジョンである。日本についての彼のヴィジョンは日本人とのつきあい増すにつれて深まってゆく。そして、ついに、日本人との長期の共棲の結果、晩年にはより深く、よりゆたかに、とりわけより私的になる。

冒頭に言ったように、筆者は日本におけるモラエスの生活を年代順に語るのではなく、そのエクリチュールを通して彼の暮らしと日本についてのヴィジョンを観察することを企てた。ここでは単に、その作品に基いて大日本におけるウェンセスラウの暮らしの読み方を提案しようとしたにすぎない。彼の日本についてのヴィジョンの詳しい分析は別の論文の対象—「ウェンセスラウ·デ·モラエスにおける日本のヴィジョン」—になるであろう。そのためにこの最初のアプローチを試みたのである。

1 Armando Martins Janeira, introdução a "Os Serões no Japão", La. ed., Parceria A. M. Pereira, Ltda.1973 2 ibid 3 ibid 4 Celina Silva, introdução ao "Dai-nippon" Livraria Civilização Editora, Porto 1983, pag.23

5「ライフヒストリー」については用語を確定する方がよい。英語にはstoryと historyがある。「Life history」とは、語り手が生き描いたとおりの「ある人生の歴史」を意味する。フランス語はlife history使われ方と同じ意味でrécit de vieという語を用いた。

Life historyとは、語り手がのこしたものだけではなく、語り手の外的文献や出典全体を使ったものをも基礎にした、私的生活の歴史と解される。ここでは、ライフヒストリーをlife storyあるいはrécit de vieと同じ意味で用いる。つまり、語り手によって述べられるライフヒストリーである。

伝記的方法については次の文献を参考にせよ。Daniel Bertaux L'approche biographique. Sa validité méthódologique, ses potentialités, Cahiers Internationaux de Sociologie, numero spécial: Histoires de Vie et Vie Sociale, volume LXIX-1980; Franco Ferraroti, Histoires et Histoire de Vie, La méthode biographique dans les sciences sociales, Paris, Librairie des Méridiens,1983

7「第一モメント」に関するウェンセスラウ·ヂ·モラエスの言表あるいはエクリチユ ールはTraços do Extremo Oriente, capítulo "Saudades do Japão', Livraria Barateira, Lisboa, La, ed, 1946から選んだ。

8Armando Martins Janeira, O Jardim do Encanto Perdido, pag, 192

9ibid, pag.192

10伝記的性格の作品(伝記、回想録、ライフヒストリー)はどれも常に主観的である伝記的叙述は人間的行為であり、そこでは、経験、「私」と「世界」との間の相互作用が「個別な私」との「個人化された世界」を我々に明らかにする。そのため、伝記や生活記録やや回想録を構成するその人間の実践は綜合的活動、社会的文脈の積極的な全体化なのである。つまり、Ferrarotiが言うように「社会的なるもののうちでもっとも単純な要素―その最小の原子―ではまったくなくて、個人は社会的要素の複雑な綜合である。」そして。伝記的叙述を構成するその 人間行為は個人から発するのである。

11 Jorge Dias, A perspectiva Portuguesa do Japão, Boletim do Centro de Estudos de Macau, 1, Centro De Estudos Marítimos de Macau, pag, 107

12ウェンセスラウ·デ·モラエスは1854年5月30日にリスボンで生まれた。陸軍に入るが、陸軍を辞めて海軍に入る。1875年に海軍学校で海軍士官のコースを終える。士官として1888年にマカオに行き、1891年までマカオ港務副司令に任命され、1899年までマカオにとどまる。海軍士官の資格で何度か訪日し、1899年に兵庫大阪ポルトガル領事に任命されて日本に定住。

13「第二のモメント」に関するエクリチュールは以下の作品から選んだ。 Os Serões no Japão, Parceria A. M. Pereira, Ltda, La. ed, 1973 A vida Japonesa (1905-1906), Livraria Chardon de Lello Irmão, porto, 1985, Cartas do Japão, 2a série (1907-1908), Lisboa Portugal-Brasil, Soc. Editora, Cartas do Japão, la série (1902-1904), Lisboa, Parceira, 1977

14「第三モメント」にかかわるエクリチュールは以下の作品から選んだ。

O Bon Odori em Tokushima, Porto, Companhia Portuguesa Editora, 2a-edição, O-Yone e Ko-haru, Porto, Edição de A Renascença Portuguesa,1923

15領事およびポルトガル海軍士官の即時辞職をもとめる申請は1913年6月10日付。その中でウェンセスラウ·デ·モラエスは「きわめて個人的な理由」をあげ、「日本にとどまりたく、そこでは、退役を含め、ポルトガル国籍と恐らく両立し得ないほどの、いかなるポルトガルの役人としての公的地位とも両立し得ない立場に身をおくつもり」であると述べている。ラフカディオ·ハーンがしたのと同じように日本に帰化するかもしれないと考えていたのだろうか。

16 Armando Martins Janeira, O Jardim do Encanto Perdido, porto, Livraria Simões Lopes, pag. 87

17 ibid pag. 185-186

18 ibid pag. 151

19 ibid pag. 103

*しへマリア·ジョア·ジセネイロ(社会学者)1992年7月、東京にて

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